碇潜
前 ワキ 旅僧 シテ 漁翁 ツレ 男 後 シテ 平知盛 ツレ 二位の尼 地は 長門壇浦 季は 秋 ワキ次第「雲をしるべのよそに見て。〳〵。月の行方を尋ねん。 詞「是は都方より出でたる僧にて候。さても平家の一門は。長門の浦にて果て給ひて候。我等も平家のゆかりの者にて候ふ程に。一門の御跡を弔ひ申さんと思ひ。唯今長門の国へと志し候。 道行「本よりも。浮世の旅に又出でゝ。〳〵。宿定めなく捨つる身の。行末なればそことしも。波に落ちくる汐風。早鞆の浦に着きにけり。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。早鞆の浦に着きて候。暫く舟を相待ち。便船を乞はゞやと存じ候。 シテ一声「いかに網の村君。今日は朝和の其まゝに。沖も磯辺も波はなし。釣垂るゝ暇も惜しや疾く出でゝ。浮世のわざを急ぐとよ。磯千鳥。友呼びかはす声すなり。海士の子供も心せよ。 ワキ詞「なふ〳〵あれなる舟に便船申さう。 シテ「中々の事めされ候へ。さて船賃は候。 ワキ「さん候出家の事にて候へば船賃は持たず候。 シテ「門司赤間や波風の。早鞆といひて恐ろしき所を。船賃なくて渡らんとは。無道心なる僧達かな。 ワキ「不思議の事を聞く物かな。無縁の僧に船賃を。取らんと思ふ人々こそ。無道心とはいふべけれ。 シテ「実に〳〵是は御理。さて又首に懸け給ふは。如何なる物にて有るやらん。 ワキ「是は一乗妙典なり。御望みあらば読誦せん。 シテ「さてはうれしや御僧の。読誦を我等が船賃にて。 ワキ「今此舟に法の道。 シテ「いざ聴聞せん法華経の。門司の関の戸明かせや篝火。 ワキ「妙法蓮華経薬王菩薩品。如子得母如渡得船。 シテ「こは渡りに舟を得たりとや。あらたふとや此御法。 地「とく〳〵召され候へ。とく〳〵召され候へと。いふや願ひも三つの舟に。上人の御法こそ。よき船賃と覚えたり。実にや漏らさじの。誓ひの舟に法の人。他生の縁は有難や。他生の縁はありがたや。 ワキ詞「如何に尉殿。まづ〳〵舟より御上り候へ申すべき事の候。 シテ「心得申し候。 ワキ「何とやらん似合はぬ申事にて候へども。いにしへ此浦にての軍物語が承りたく候。 シテ「やすき間の事語つて聞かせ申し候ふべし。 カタリ「さても此壇の浦の合戦。今はかうよと見えし時。門脇殿の次男能登の守教経小船に取り乗り。大長刀を茎長に取りのべ。こゝかしこを薙ぎ給ふにぞ。兵多く亡びにけり。其時新中納言使者を立て。詮なき能登殿のふるまひかな。さればとてよき敵にてもあらばこそと宣ひければ。さては此言葉は。大将と組めと云ふ事にてや有るらんとて。敵の舟にまぎれ入り。九郎判官を尋ね給ふ。 ツレ「如何はしたりけん。判官の舟に乗り移りぬ。 シテ「能登殿喜び打つてかゝる。 地「判官これを見て。〳〵。叶はじとや思ひけん。長刀脇にかい挟んで。二丈ばかりの味方の舟に。ゆらりと飛び乗れば。教経はせんかたもなく。長刀投げ捨て腹立て叱り。あたりを払つて立つたりけり。 シテ「かゝりける所に。 地「かゝりける所に。安芸の太郎同じき次郎。兄弟二艘の舟を押し寄せ。能登の守とぞ戦ひける。 シテ「物々しおのれ等に。 地「太刀も刀も入るまじや。いざや冥途の供に連れんと。左右の腕をさし出だし。彼等をつかんで引き寄せて。左右の脇に挟んで。波の底に沈みけり。 シテ「さてこそ人々の。 地「幽霊ぞとは白波の。跡弔ひてたび給へ。亡き跡弔ひてたび給へ。(中入) ワキ「さても我夜も静かなる折節に。此海際の辺にて。平家の跡を弔ふ所に。不思議やな今までは。無かりし大船うかみいでゝ。 カヽル「さも早鞆の海なれども。流れもやらず漕ぎもせず。潯陽の江の辺ならねど。しうせんの内にて弾ずる秘曲。松風にも岩こす波にも。更にまぎれぬ琴の爪音。あら不思議の事やな。 ツレ「如何に大納言の局。今宵は波も静かなれば。月を叡覧あらんとの御事なり。あの苫取れと申せ。 地「楫枕。せめては月を松風の。〳〵。吹くもよしなや苫取りて。夜舟に月を待たうよ。 地クリ「それ身を観ずる時は岸上の草。命を知れば江の辺に繋がざる舟。 ツレサシ「さる程に壇の浦の合戦。今は頼みもなかりしかば。 地「新中納言知盛二位殿に向ひ宣ふやう。今は是まで候。御痛はしながら行幸を。波の底になし参らせ。一門供奉し申すべしと。 クセ「涙をおさへて宣へば。二位殿は聞し召し。心得て候とて。しづ〳〵と立ち給ひ。いまはの出立と思しくて。白き御袴の。つま高う召されて。神璽を脇に挟み。宝剣を腰にさし。大納言の局に。内侍所をいたゞかせ。皇居に参り跪き。如何に奏聞申すべし。此国と申すに。逆臣多き所なり。見えたる波の底に。龍宮と申して。めでたき都の候。行幸をなし申さんと。泣く〳〵奏し給へば。 ツレ「さすが恐ろしと思しけるか。 地「龍顔に御涙を浮べさせ給ひて。東に向はせおはしまし。天照大神に御暇申させ給ひ。其後西方にて。御十念も終らぬに。二位殿歩みより。玉体を抱き目をふさぎて。波の底に入り給ふ。恨めしかりし事どもを。語るもよしなや。跡とむらへや僧達と。夜すがらくどき給ひしに。俄にかきくもり。虚空に鬨の声きこゆ。 後ジテ「すは又修羅の合戦の始まるぞや。 詞「波の上に浮び出でたるは何者ぞ。なに修羅の大将無明王とや。あらもの〳〵し上北面下北面。宰相三位弁の蔵人。もつこん百官楯を突き。あれ追つ払へ。又修羅の嗔恚の起るぞとよ恨めしや。 地「修羅の戦ひ始まれば。〳〵。源氏の軍兵其数浮びて。かの御坐舟を中にとりこめ。攻め戦ふことおびたゝし。 シテ「平家の公達艫舳に廻り。 地「平家の公達艫舳に立ち渡り。矢先を揃へ切先をならべて。寄せくる敵を待ちかけたり。中にも知盛進み出でゝ。大長刀を茎長に取りのべ。左を薙ぎては右をはらひ。多くの敵を亡ぼしけるが。今は是まで沈まんとて。鎧二領に兜二はね。猶も其身を重くなさんと。遥かなる沖の碇の大綱。えいや〳〵と引き上げて。兜の上に碇をいたゞき。碇をいたゞきて。海底に飛んでぞ入りにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著