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生田敦盛 一名 生田

禅鳳作

ワキ 法然上人の従者
子方 敦盛の子
シテ 平敦盛

地は 前は京都賀茂の社 後は摂津生田の森
季は 秋七月

ワキ詞「是は黒谷法然上人に仕へ申す者にて候。又是に渡り候ふ人は。あるとき上人加茂へ御参詣御下向の時。さがり松の下に二歳ばかりなる男子のうつくしきを。手箱の蓋に入れ世の常にこしらへ捨ておきて候ふを。上人不便に思召され抱かせ御帰り候ひて。いろ〳〵そだて給ひ候ふ程に。はや十歳に御あまり候。父母のなき事を歎き給ひ候ふ程に。説法の後此事を御物語り候へば。聴衆の内より若き女性の走り出で。我子にて候ふ由おほせ候ふを。ひそかに御尋ね候へば。一年一の谷にて討たれ給ひし。敦盛の御子にておはしまし候。此事を聞き給ひて。夢になりとも父の姿を見せて賜はり候へと。賀茂の明神へ祈誓有るべき由おほせられ候ひて。一七日詣で給ひ。今日ははや満参にて候ふ程に。同道申し賀茂の明神へ参詣申し候。是ははや賀茂の明神にて御座候。よく〳〵御祈誓候へ。
子方サシ「有難や所からなる御社の。朱の玉垣神さびて。心も澄める御手洗の。ふかき恵みを頼むなり。
下歌「夢になりともたらちねの。其面影を見せ給へ。
上歌「かくばかり。祈る心の末とげば。〳〵。恵みになどか洩るべきと。誓ひ糺の神ともに。願ひを叶へおはしませ。〳〵。
子詞「あら不思議や少し睡眠の内に。あらたに御霊夢を蒙りて候。
ワキ詞「あらめでたやな。御霊夢のやうを御物語り候へ。
子「あの御宝殿の内よりも。あらたなる御声にて。汝夢になりとも父を見んと思はゞ。是より津の国生田の森へ下れと。あらたに霊夢を蒙りて候。
ワキ「是は不思議なる事にて候ふ物かな。黒谷へ御帰りあるまでもなく候。是より生田の森へ御供申し候ふべし。やがて思召し立ち候へ。
道行「山陰の。加茂の宮居を立ちいでゝ。〳〵。急ぐ行くへは山崎や。霧立ち渡る水無瀬川。風も身にしむ旅衣。秋は来にけり昨日だに。訪はんと思ひし津の国の。生田の森に着きにけり。〳〵。
ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。是ははや津の国生田の森にて候。森のけしき川の流れ。都にて承り及びたるにもいやまさりて面白き名所にて候。あれに見えたる野辺は生田の小野にてもや候ふらん。立ち寄り詠めばやと思ひ候。こゝかしこを詠め候ふ程に。はや日の暮れて候ふは如何に。あれに灯の影の見えて候ふは人家にて有りげに候。立ち寄り宿を借らばやと思ひ候。
シテサシ「五薀もとより是れ皆空。何によつて平生此身を愛せん。苦を守る幽魂は夜月に飛び。屍を失ふぐはくは秋風に嘯く。あら心すごの折柄やな。
ワキ「不思議やな是なる草の庵の内に。さも花やかなる若武者の。甲冑を帯し見え給ふぞや。是は如何なる事やらん。
シテ「おろかの人の心やな。面々是まで来り給ふも。我に対面の為めならずや。はづかしながら古の。敦盛が幽霊来りたり。
子「なふ敦盛とはわが父かと。身にも覚えず走りより。
地「袂にすがり絶えこがれ。〳〵。泣く音にたつる鶯 の。逢ふ事のうれしさも。うき身にあまるばかりなり。かくは思へど頼まれぬ。夢の契りを。現に返すよしもがな。
シテ「無慙やな忘れがたみの撫子の。花やかなるべき身なれども。衰へはつる墨染の。袂を見るこそあはれなれ。さても御身孝行の心深き故。加茂の明神に歩みを運び。夢になりとも我父の。姿を見せてたび給へと祈誓申す。明神あはれみおはしまし。閻王に仰せつかはさる。閻王おほせを承り。しばしの暇を賜はるなり。親子の契りも今を限りなるべし。
地「更け行く月の夜もすがら。昔をいざや語らん。
クセ「然るに平家の。栄花を極めし其始め。花鳥風月のたはむれ。詩歌管絃のさま〴〵に。春秋を送り迎へしに。如何なるをりか来りけん。木曽の桟かけてだに。思はぬ敵におとされて。主上を始め奉り。一門の人も悉く。花の都を立ち出で。西海の空に趣きぬ。習はぬ旅の道すがら。山を越え海を渡り。しばしは天ざかる。鄙の住居の身なりしに。又立ち帰る浦波の。須磨の山路や一の谷。生田の森に着きしかば。こゝは都も程近しと。一門の人々も。よろこびをなしゝ折節に。
シテ「範頼義経の其勢。
地「雲や霞の如くにて。暫く戦ふといへども。平家は運も槻弓の。やたけ心もよわ〳〵と。皆散り〴〵に為りはてゝ。あはれも深き生田川の。身を捨てし物語。かたるぞよしなかりける。
シテ「うれしやな夢の契りの仮初ながら。親子鸚鵡の袖ふれて。
地「名残つきせぬ心かな。(中の舞)
シテ詞「あれに見えたるは如何なる者ぞ。何閻王よりの御使とや。片時の暇と有りつるに。今までの遅参心得ずと。閻王怒らせ給ふぞと。
地「いふかと見れば不思議やな。〳〵。黒雲俄に立ち来り。猛火を放ち剣を降らして。其数しらざる修羅の敵。天地を響かし満ち〳〵たり。
シテ「物々し明暮に。
地「なれつる修羅の敵ぞかしと。太刀真向にさしかざし。こゝやかしこに走り廻り。火花を散して戦ひしが。暫く有りて黒雲も。次第に立ち去り修羅の敵も。忽に消え失せて。月澄み渡りて明々たる。暁の空とぞなりたりける。
シテ「恥かしや子ながらも。
地「かく苦しみを見る事よ。急ぎ帰りてなき跡を。懇に弔ひてたび給へと。泣く泣く袂を引き別れ。立ち去る姿は蜻蛉の。小野の浅茅の露霜と。形は消えて失せにけり。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著

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