能「釆女」の詞章とともに、采女が仕えた平城ならの帝の逸話を記す大和物語 145~148を掲載しています。
145は能「釆女」の元となった部分です。
また146では、能「龍田」に引かれる紅葉の歌「立田川 紅葉乱れて 流るめり 渡らば錦 中や絶えなん」がこの帝の御製であると述べられています。
併せて内容の把握にお役立てください。

 

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釆女

世阿弥作


ワキ 旅僧
シテ 里女


ワキ 前に同じ。
シテ 釆女

地は 大和
季は 三月

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我此程は都に候ひて。洛陽の寺社残りなく拝み廻りて候。又是より南都に参らばやと思ひ候。
サシ「頃は弥生の十日余り。花の都を旅立ちて。まだ夜をこめて東雲の。
道行「影ともに。我も都を下り月。〳〵。残る朝の朝霞。深草山の末つゞく。木幡の関を今朝越えて。宇治の中宿井手の里。過ぐれば是ぞ奈良坂や。春日の里に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。春日の里に着きて候。心静かに社参申さばやと思ひ候。
シテ次第「宮路正しき春日野の。〳〵。寺にもいざや参らん。
サシ「更闌け夜静かにして。四所明神の宝前に。耿々たる灯も。世を背けたる影かとて。共に憐む深夜の月。朧々と杉の木の間を洩りくれば。神の御心にも。若く物なくや思すらん。
下歌「月に散る。花の陰行く宮廻り。
上歌「運ぶ歩みの数よりも。〳〵。積る桜の雪の庭。又色添へて紫の。花を垂れたる藤の門。明くるを春の景色かな。〳〵。
ワキ詞「如何に是なる女性に尋ね申すべき事の候。
シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「見申せばこれ程茂りたる森林に。重ねて木を植ゑ給ふ事不審にこそ候へ。
シテ「さては当社始めて御参詣の人にて御入り候ふか。
ワキ「さん候始めて此所に参りて候。当社の謂委しく御物語り候へ。
シテ「そも〳〵当社と申すは。神護景雲二年に。河内の国平岡より。此春日山本宮の峰に影向ならせ給ふ。されば此山。もとは端山の陰浅く。木陰一つもなかりしを。陰頼まんと藤原や。氏人よりて植ゑし木の。もとより恵み深き故。程なくかやうに太山となる。然れば当社の御誓ひにも。人の参詣はうれしけれども。木の葉の一葉も裳裾に着きてや去りぬべきと。惜しみ給ふも何故ぞ。人の煩ひ茂き木の。陰深かれと今も皆。諸願成就を植ゑ置くなり。されば慈悲万行の日の影は。三笠の山に長閑にて。五重唯識の月の光りは。春日の里に隈もなし。
下歌地「陰頼みおはしませ。唯かりそめに植うるとも。草木国土成仏の。神木と思し召し。あだにな思ひ給ひそ。
上歌「あらかねの其始め。〳〵。治まる国は久方の。あめはゝこぎの緑より。花開け香残りて。仏法流布の種久し。昔は霊鷲山にして。妙法華経を説き給ふ。今は衆生を度せんとて。大明神と顕はれ。此山に住み給へば。鷲の高嶺とも。三笠の山を御覧ぜよ。さて菩提樹の木陰とも。盛なる藤咲きて。松にも花を春日山。長閑けき陰は霊山の。浄土の春におとらめや。〳〵。
シテ詞「如何に申し候。猿沢の池とて隠れなき名池の候ふを御覧ぜられて候ふか。
ワキ詞「承り及びたる名池にて候ふ御教へ候へ。
シテ「此方へ御出で候へ。是こそ猿沢の池にて候へ。又思ふ子細の候へば。此池の辺にて。御経を読み仏事をなして賜はり候へ。
ワキ「やすき間の事仏事をばなし申すべし。さて誰と志して回向申し候ふべき。
シテ「是は昔し釆女と申しゝ人。此池に身を投げ空しくなりしなり。されば天の帝の御歌に。吾妹子が寐ぐたれ髪を猿沢の。池の玉藻と見るぞ悲しきと。よめる歌の心をば。知ろし召され候はずや。
ワキ「実に〳〵此歌は承り及びたるやうに候。委しく御物語り候へ。
シテ「昔し天の帝の御時に。一人の釆女有りしが。釆女とは君に仕へし上童なり。始めは叡慮浅からざりしが。程なく御心変りしを。及ばずながら君を恨み参らせて。此池に身を投げ空しくなりしなり。
ワキ「実に〳〵我も聞き及びしは。帝あはれと思し召し。此猿沢に御幸なつて。
シテ「釆女が死骸を叡覧あれば。
ワキ「さしもさばかり美しかりし。
シテ「翡翠のかんざし嬋娟の鬢。
ワキ「桂の黛。
シテ「丹花の唇。
ワキ「柔和の姿引きかへて。
二人「池の藻屑に乱れ浮くを。君もあはれと思し召して。
地「わぎもこが。寝ぐたれ髪を猿沢の。〳〵。池の玉藻と見るぞ悲しきと。叡慮に懸けし御情。かたじけなやな下として。君を恨みしはかなさは。たとへば及びなき。水の月取る猿沢の。生ける身と思すかや。我は釆女の幽霊とて。池水に入りにけり。池水の底に入りにけり。(中入)
ワキ歌「池の波。夜の汀に坐をなして。〳〵。仮に見えつる幻の。釆女の衣の色々に。弔ふ法ぞまことなる。〳〵。
後ジテ「有難や妙なる法を得るなるも。心の水と聞く物を。さわがしくとも教へあらば。浮ぶ心の猿沢の。池の蓮の台に座せん。よく〳〵弔ひ給へとよ。
ワキ「不思議やな池の汀に顕はれ給ふは。釆女と聞きつる人やらん。
シテ詞「恥かしながらいにしへの。釆女が姿を顕はすなり。仏果を得しめおはしませ。
ワキ「もとよりも人々同じ仏性なり。なに疑ひも波の上。
シテ「水の底なる鱗や。
ワキ「乃至草木国土まで。
シテ「悉皆成仏。
ワキ「疑ひなし。
地「ましてや人間に於てをや。龍女が如く我もはや。変成男子なり。釆女とな思ひ給ひそ。しかも所は補陀洛の。南の岸に至りたり。是ぞ南方無垢世界。生まれん事も頼もしや。〳〵。
地クリ「実にやいにしへに。奈良の都の代々を経て。神と君との道すぐに。国家を守る誓ひとかや。
シテサシ「然れば君に仕へ人。其品々の多き中に。
地「わきて釆女の花衣の。裏紫の心を砕き。君辺に仕へ奉る。
シテ「されば世上に其名を広め。
地「情内にこもり。言葉外に顕はるゝためし。世以て類多かりけり。
クセ「葛城の王。勅に従ひ陸奥の。忍ぶもぢずり誰も皆。こともおろそかなりとて。設けなどしたりけれど。猶しもなどやらん。王の心解けざりしに。釆女なりける女の。土器取りし言の葉の。露の情に心解け。叡感以て甚し。されば浅香山。影さへ見ゆる山の井の。浅くは人を思ふかの。心の花開け。風もをさまり雲静かに。安全をなすとかや。
シテ「然れば釆女の戯ぶれの。
地「色音に移る花鳥の。とぶさに及ぶ雲の袖。影も廻るや盃の。御遊の御酒の折々も。釆女の衣の色添へて。大宮人の小忌衣。桜をかざす朝より。今日も呉織。声の綾をなす舞歌の曲。拍子を揃へ袂をひるがへして。遊楽快然たる。釆女の衣ぞ妙なる。取り分き忘れめや。曲水の宴の有りし時。御土器度々廻り。有明の月更けて。山時鳥誘ひ顔なるに。叡慮を受けて遊楽の。月に鳴け。(序の舞)
シテワカ「月に鳴け。同じ雲井の時鳥。
地「天つ空音の万代までに。
シテ「万代と。限らじ物を天衣。撫づとも尽きぬ巌ならなん。松の葉の。
地「松の葉の。散り失せずして。正木のかづら長く伝はり。鳥の跡絶えず。天地おだやかに。国土安穏に。四海波静かなり。
シテ「猿沢の池の面。
地「猿沢の池の面に。水滔々として。波又悠々たりとかや。石根に雲起つて。雨はそうようを打つなり。遊楽の夜すがら是れ。釆女の戯ぶれと思すなよ。讃仏乗の因縁なる物を。よく弔はせ給へやとて。又波に入りにけり。又波の底に入りにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著

 

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大和物語

百四十五

昔、平城の帝に仕う奉る采女ありけり。顔容貌甚じう清らにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、逢はざりけり。其の逢はぬ心は、帝を限なく目出たき者になん思ひ奉りける。帝召してけり。扨後又も召さゞりければ、限なく心憂しと思ひけり。夜昼心に懸りて覚え給ひつゝ、恋しく佗しく覚え給ひけり。帝召しゝかど、事とも思さず、さすがに常には見え奉る、猶ほ世に経まじき心地しければ、夜密に出でて、猿沢の池に身を投げてけり。斯く投げつとも、帝は得知し召さゞりけるを、事の序ありて、人の奏しければ聞し召してけり。いと甚う哀がり給うて、池の辺に大行幸し給うて、人々に歌詠ませ給ふ。柿本の人丸、
   わぎも子がねくたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき
と詠める時に、帝、
   猿沢の池も辛しなわぎも子が玉藻潜かば水ぞ乾なまし
と詠み給うける。扨此の池に墓せさせ給うてなん、帰らせ御座しましけるとなん。

 

百四十六

同じ帝、立田川の紅葉いと面白きを御覧じける日、人丸、
   立田川もみぢ葉流る神南備の三室の山に時雨降るらし
帝、
   立田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん
とぞ遊ばしたりける。

 

百四十七

同じ帝、狩いと畏く好み給うけり。陸奥国岩手郡より奉れる御鷹、世に無く賢かりければ、二なう思して御手鷹にし給うけり。名をば岩手となん附け給へりける。其れに彼の道に心ありて、預り仕う奉り給うける大納言に預け給へりける。夜昼之れを預かりて、取飼ひ給ふほどに、如何がし給ひけん、逸し給うてけり。心肝を惑はして覓むるに更に得見出でず。山々に人を遣りつゝ覓めさすれど更に無し。自らも深き山に入りて、惑ひ歩き給へど甲斐も無し。此の事を奏せで暫しも有るべけれど、二日三日にあげず御覧ぜぬ日なし。如何せんとて内裏に参り、御鷹の失せたる由を奏し給ふ時に、帝物も宣はせず、聞し召し付けぬにやあらんとて、又奏し給ふに、面をのみ守らせ給うて、物を宣はず、怠々しと思したるなりけりと、我れにも有らぬ心地して、畏まりて在すかりて、此の御鷹の覓むるに、侍らぬ事如何様にかし侍らん、などか仰事もし給はぬと奏し給ふ時に、帝、
   言はで思ふぞ言ふに勝れる
と宣ひけり。斯くのみ宣はせて、他事も宣はざりけり。御心にいと言ふ甲斐なく惜しく思さるゝになんありける。之れをなん世の中の人、本をば左右附けゝる、旧は斯くのみなん有りける。

 

百四十八

平城の帝位に御座しましける時、嵯峨の帝は坊に御座しまして、詠みて奉り給うける、
   皆人の其の香に愛づる藤袴君が御為と手折りつる今日
帝、御返し、
   折る人の心に叶ふ藤袴うべ色毎に匂ひたりけり

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『校註日本文学叢書 第四巻』物集高見 監修 他

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