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翁草 別名 蓊草
シテ 菊の精 ワキ 僧 所 山城嵯峨野 時 秋 ワキ「是は嵯峨野大沢の辺に居住の僧にて候。扨も我四季をわかたず草花に数寄て。園にあまたの花を集め。いつも三宝に花を捧げ御経を読奉り候。殊更今は霜降も近く。菊の花盛にて候へば。色々の菊を立候所に。此程焉くとも知らず翁一人。毎日菊を手折持草庵を訪ひ来り候。けふも来りて候はゞ。いかなる人ぞと不審をなさばやとおもひ候。 サシ「既に島雁来賓し。菊に黄花を見る折柄。色ある花を採揃へ。仏前に捧奉り。潤於人華各得成実と。御法の花も色々の。〳〵。にほひも深き草の戸も。此の御経を読誦する。〳〵。 シテ、一声「一本と。思ひし菊を大沢の。法の水にや。立ぬべき。 サシ「夫梅を花の兄といひ。菊をば花の弟といふ事。色香妙なるゆへ成べし。費長と聞えし其人も。愛かしづける名草の。したしめる露のかゝる身迄も。のべて久しき。齢ひ草。実我ながらこと草に。増り草とも是なれや。されば重陽に。〳〵。茱茰の袋をかけまくも。忝なしや皇の。寿いはふ菊の宴。それは現安の翫び。我はまさに法の為。折て仏に捧げん。〳〵。 詞「いかに御僧。けふもまた色よき菊を持て参りて候。 ワキ「いつも来れる人歟。此方へ御入候へ。 シテ「扨けふも仏に花を捧げ給ひし歟。 ワキ「中々の事。けふもはや立花を供し。御経を読奉りて候。 シテ「あら有難や。我らは遅なはりて候物かな。去ながら。志には怠りの。露の間程もあらざれ共。老の歩みは足弱車の。法の値遇にあはんための心計にて社候へ。 詞「何と苦しからずば此菊をも。立添て給り候へかし。 ワキ「誠に御志の深ければ。たて添て供し候べし。此方へ給はり候へ。 シテ「荒有難や。さらば参らせうずるにて候。明なばまた参候はん。御暇申候。 ワキ「暫く此程毎日の御歩みに。異花をまじえず。只菊計を持来り給ふ事。返々も不審に社候へ。 シテ「是は仰とも覚えぬものかな。此大沢の辺に住身の。菊を殊更奉る事。其名所の名草とは。争でかしろしめさゞらん。 ワキ「勝々名所と菊の花。歌人の詞も大沢に。すむ甲斐もなき問事哉。 シテ「其上菊の名所。〳〵。河原院はかはり行とも。絶ぬ其名は今の世迄も。 ワキ「流れて聞ゆる水無瀬川。 シテ「ぬれてもいとはぬ花の雫。田簑の島やかさゝぎの。 ワキ「渡せるはしに置霜の。 シテ「白きにまじる紫野。 ワキ「うつろひがてに。 シテ「秋風の。 同「吹上にたてる白菊は。〳〵。花かあらぬ歟。浪のよするかと詠しも。これ名所の菊なれや。この大沢も言の葉に。残す歌人のかた見草。なつかしき色香かな。なつかしき花の色香かな。 同、ロンギ「花の名所はさて置ぬ。扨此程の手向草。露もたがはずとひ給ふ。御身焉くの人哉覧。 シテ「焉くとか。庵のあたりも遠からぬ。霧の籬の下陰に。かくれてそれならぬ身なれども。御法の縁に来りたり。 同「そもやまがきの陰にすむ。身ぞとはいかに夕附夜。 シテ「覚束なしと面影を。 同「御覧じつらめ我こそは。 シテ「霜を戴く翁草の。 同「花の精なりや。疑はせ給ふなよ。時もこそあれ長月の。ほがらかなれば夜もすがら。妙なる御声なし給へ。其時は。重てま見えむと。云かと見れば糸薄。むすぼほれゆく姿は。籬の内に入りにけり。〳〵。 ワキ「扨は園なる籬の菊の。御法の値遇の縁に曳れて。我に詞をかはしけるぞや。ひとつは末世がたりなれば。重て奇特を見るべしと。念ひの珠をくり返し。〳〵。心も澄る月の夜に。庭の松風声そへて。草木品を読誦する。〳〵。 後シテ「雖一地。所生一雨所潤。 同「而諸草木。 シテ「各有差別。 同「降来る雨は草木を。分てそゝぐにはあらね共。うるほふ心はをのが品々の。籬の菊も白妙の。たえなる仏果の縁に。顕れ出たるその姿の。翁閑たる御覧ぜよ。 ワキ「不思議やな。さも露深き色の陰に。色にほやかなる菊重ねの。きぬを着せる翁の姿。顕れ給ふあやしさよ。 シテ「何をかあやしみ給ふ覧。此程日毎に菊を折て。歩みを運び御法を聞し。其翁にて候也。 ワキ「凡無心の草木の。斯ま見えぬる姿詞。思へば猶も不審なり。 シテ「王徳象の林檎より出し。梵天といへる薩埵の化現。かやうの事をもしろしめさば。さのみ不審は御あやまり。 ワキ「いかさま聞ば嶺南の楓人。 シテ「篔簹の嬰児。 ワキ「其外に。 二人「海中の銀山に生ずる女樹。是等は名耳を聞つるに。 同「今目の前に白菊の。〳〵。花の物いふ面影に。あふは偏に逢難き。御法の故と思へばや。弥々心を墨染の。袂に露の玉散て。ふかく渇仰の粧ひをはげむ計也。 同、クリ「誰か云し草木心なしとは。四季折々を忘れぬ物を。正月梅花落。二月に桃花紅ゐなり。栄枯本来限り有。何ぞかならずしも東風をうらみむや。 シテ、サシ「すべからく草木も。歳々の気に随ひつゝ。 同「豊かなるべき其時は。先甘草を生初め。苦しむべきその年は。初めてにがき草を生ず。 シテ「時に応ぜる草木の色を。 同「心なしとは。争いはん。 クセ「秋浅く成行儘に荻の葉の。かつ下枯て虫の音も。遠ざかるべき折節。時知り貌に白菊の。咲乱れたる分野は。をきてえならぬ詠めなり。誠に此花ひらけて後。更に花なしと作られし。心の花はすゑの代まで。くちまじきこがねぎく。思ひ出の詞なるべし。又は淵明が。心をうつす園の菊。曇らぬ花のかゞみと歟。 シテ「慈童は県山に捨られて。 同「何を指南とも涙に。袖も裾も露しげき。山路草の陰に居て。慈眼視衆生福聚海。無量の文を口に誦し。或は葉に書付て。終に彭祖と仙の名を。得たるも是皆菊による徳成べし。 シテ「八重咲菊は。むかしより。 同「老せぬ秋の。かざしの袖。 シテ「余所に見る。戸難瀬の菊の。花盛。 同「折ばやをらん。滝なくもがな。 シテ「をらばや折添ん大沢の菊に。 同「をらばや折そへん大沢のきくに。 シテ「同じ名所の花なれば。手向て。 同「皆供成仏の。 シテ「悟りをひらけよと。いふ声のうつる間も。 シテ「小鹿の声の。 同「はや絶々に菊月の。光も小倉の山に。傾きぬれば。梢をすさぶ。風も音すごく。千種の露も身に入渡りて。八声の鳥。鐘のひびきに夜は天明と。白菊の夜はほの〴〵と。しら菊の笆に。また立隠れ失にけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編