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杜若

禅竹作

ワキ 旅僧
シテ(女) 杜若の精

地は 三河
季は 四月

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我此間は都に候ひて。洛陽の名所旧跡残りなく一見仕りて候。又是より東国行脚と志し候。
道行「夕べ〳〵の仮枕。〳〵。宿はあまたにかはれども。同じ憂き寐の美濃尾張。三河の国に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ間。程なう三河の国に着きて候。又これなる沢辺に杜若の今を盛と見えて候。立ちより詠めばやと思ひ候。げにや光陰とゞまらず。春過ぎ夏も来て。草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花の色。かほよ花とも申すやらん。あら美しの杜若やな。
シテ詞「なふ〳〵御僧。何しに其沢には休らひ給ひ候ふぞ。
ワキ詞「是は諸国一見の者にて候ふが。杜若のおもしろさに詠め居て候。さてこゝをばいづくと申し候ふぞ。
シテ「是こそ三河の国八橋とて。杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫の。なべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき詠め給へかし。あら心なの旅人やな。
ワキ「げに〳〵三河の国八橋の杜若は。古歌にもよまれけるとなり。何れの歌人の言の葉やらん承りたくこそ候へ。
シテ「伊勢物語にいはく。こゝを八橋といひけるは。水行く河の蜘蛛手なれば。橋を八つ渡せるなり。其沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを。ある人かきつばたと云ふ五文字を句の上に置きて。旅の心をよめと言ひければ。唐衣着つゝなれにし妻しあれば。はる〴〵来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原の業平の。此杜若をよみし歌なり。
ワキ「あら面白やさては此。東のはての国々までも。業平は下り給ひけるか。
シテ「こと新しき問事かな。此八橋のこゝのみか。猶しも心の奥ふかき。名所々々の道すがら。
ワキ「国々ところは多けれども。取りわき心の末かけて。
シテ「思ひわたりし八橋の。
ワキ「三河の沢の杜若。
シテ「はる〴〵きぬる旅をしぞ。
ワキ「思ひの色を世に残して。
シテ「主は昔に業平なれども。
ワキ「かたみの花は。
シテ「今こゝに。
地「在原の。跡な隔てそ杜若。〳〵。沢辺の水の浅からず。契りし人も八橋の。蜘蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。昔を語る今日の暮。やがて馴れぬる心かな。〳〵。
シテ詞「いかに申すべき事の候。
ワキ詞「何事にて候ふぞ。
シテ「見ぐるしく候へども。わらはが庵にて一夜を御明かし候へ。
ワキ「あらうれしややがて参り候ふべし。
シテ「なふ〳〵此冠唐衣御覧候へ。
ワキ「不思議やな賤しき賤の臥処より。色もかゝやく衣を着。透額の冠を着し。これ見よと承る。こはそも如何なる事にて候ふぞ。
シテ「是こそ此歌によまれたる唐衣。高子の后の御衣にて候へ。又此冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。かたみの冠唐衣。身に添へ持ちて候ふなり。
ワキ「冠唐衣は先々置きぬ。さて〳〵御身は如何なる人ぞ。
シテ「誠は我は杜若の精なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。よみしも女の杜若に。なりし謂の言葉なり。又業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。よみおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵の。仏果の縁を弔ふなり。
ワキ「是は末世の奇特かな。正しき非情の草木に。言葉をかはす法の声。
シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「是ぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でゝ。
シテ「普く済度。
ワキ「利生の。
シテ「道に。
地「はる〴〵来ぬる唐ころも。〳〵。着つゝや舞を奏づらん。
シテ「別れこし。跡の恨みの唐衣。
地「袖を都に返さばや。
シテクリ「抑此物語は。如何なる人の何事によつて。
地「思ひの露の信夫山。忍びて通ふ道芝の。始めもなく終りもなし。
シテサシ「昔男初冠して奈良の京。春日の里に知るよしゝて狩にいにけり。
地「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。大内山の春がすみ。立つや弥生の初めつかた。春日の祭の勅使として。透額の冠を許さる。
シテ「君の恵の深き故。
地「殿上にての元服の事。当時其例稀なる故に。初冠とは申すとかや。
クセ「然れども世の中の。一度は栄え。一度は衰ふる理の。誠なりける身のゆくへ。住所求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の。海面に立つ波を見て。いとゞしく。過ぎにし方の恋しきに。羨ましくもかへる浪かなと。うち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕気色。
シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。
地「遠近人の。見やはとがめぬと口ずさび。猶はる〴〵の旅衣。三河の国に着きしかば。こゝぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと。思ひぞ出づる都人。然るに此物語。其品おほき事ながら。とりわき此八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人々のかず〳〵に。名をかへ品をかへて。人待つ女物病み。玉すだれの。光りも乱れて飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋風吹くと仮にあらはれ。衆生済度の我ぞとは。知るや否や世の人の。
シテ「暗きに行かぬ有明の。
地「光り普き月やあらぬ。春やむかしの春ならぬ。我身ひとつはもとの身にして。本覚真如の身を分け。陰陽の神といはれしも。唯業平の事ぞかし。かやうに申す物がたり。疑はせ給ふな旅人。遥々来ぬる唐衣。着つゝや舞をかなづらん。
シテ「花前に蝶まふ紛々たる雪。
地「柳上に鶯飛ぶ片々たる金。(序の舞)
シテ「植ゑ置きし。昔の宿のかきつばた。
地「色ばかりこそ昔なりけれ。〳〵。色ばかりこそ。
シテ「むかし男の名を留めて。花橘の匂ひうつる。菖蒲の鬘の。
地「色はいづれ。似たりや似たり杜若花菖蒲。梢に鳴くは。
シテ「蝉の唐衣の。
地「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と明くる東雲の。浅紫の杜若の。花も悟りの心開けて。すはや今こそ草木国土。〳〵。悉皆成仏の。御法を得てこそ失せにけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著

底本では世阿弥作と記されていますが、一般的な説に則り禅竹作としました。

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