加茂物狂
ワキ 狂女の夫 シテ 狂女 地は 京都 季は 四月 ワキ次第「帰るうれしき都路に。〳〵。雲井ぞ長閑けかりける。 詞「是は都方の者にて候。我東国一見の為め罷り下り。こゝかしこに月日を送り。早三年になりて候。又都の事もゆかしく候ふ程に。此度都へ上らばやと存じ候。 道行「雁金の。花を見捨つる名残まで。〳〵。故郷思ふ旅心。憂きだに急ぐ我方は。さすがに花の都にて。海山かはる隔てにも。思ふ心の道の辺の。便の桜夏かけて。詠めみじかきあたら夜の。花の都に着きにけり。〳〵。 シテサシ「面白や今日は卯月の取り〴〵に。千早振る其神山の葵草。かけて頼むや其恵み。色めきつゞく人並に。あらぬ身までも急ぎ来て。 一声「今日かざす。葵や露の玉葛。 地「かづらも同じかざしかな。 シテ「かざす袂の色までも。 地「思ひある身と人や見ん。 シテサシ「おもしろや花の都の春過ぎて。又其時のをりからも。 地「たぐひはあらじ此神の。誓ひ糺の道すがら。人やりならぬ心々の。さま〴〵見えて袖をつらね。裳裾を染めて行きかふ人の。道去りあへぬ物思ふ。 下歌地「我のみぞ。猶忘られぬ其恨み。 上歌「人の心は花染の。〳〵。うつろひ易き頃も過ぎ。山陰の。加茂の川波糺の。森の緑も夏木立。涼しき色は花なれや。忘れめや。葵を草に引き結び。仮寐の野辺の露の曙。面影匂ふ涙の。ためしなれや恋路の。身は替はるまじなあぢきなや。〳〵。 ワキ詞「如何に是なる狂女。今日は当社の御神事なり。心を静めて結縁をなし候へ。 シテ詞「是は仰せとも覚えぬものかな。これも狂もよく思へば聖と言へり。其上神は知ろし召すらん。正直捨方便の御恵み。塵に交はる和光の影は。狂言綺語も隔てあらじ。あら愚かの仰せや候。 ワキ「実に此言葉は恥かしや。讃仏乗の心ならば。何はの事も愚ならじ。しかも是なる御社は。当社に取りても異なる垂跡。舞歌を手向けて乱れ心の。望を祈り給ふべし。 シテ「そも此社は取り分きて。舞歌を納受有る事の。其御謂は何事ぞ。 ワキ「是こそさしも実方の。宮居給ひし粧ひの。臨時の舞の妙なる姿を。水にうつし御手洗の。其縁ある世を渡る。橋本の宮居と申すとかや。 シテ「あら有難やと夕波に。 ワキ「今立ち寄りて。 シテ「影を見れば。 地「現なや。見しにもあらぬ面影の。〳〵。衰へ果つる粧ひは。及ばぬ昔のそれのみか。身にも顔ばせの名残さへ。涙のおちぶるゝこそ悲しき。今は逢ふとも中々に。それともいさや白露の。命ぞ恨めしき。命ぞ恨みなりける。 ワキ詞「是なる者を如何なる者ぞと存じて候へば。某がかたらひたる女にて候。今は人目もさすがに候ふ間。さあらぬ体にもてなし。人間を待ちて名乗らばやと存じ候。如何に狂女。此社にて舞をまひ。思ふ事を祈るならば。神もや納受あるべきぞと。 シテ「風折烏帽子かりに着て。 ワキ「手向の舞を。 シテ「まふとかや。 地次第「又ぬぎかへて夏衣。〳〵。花の袖をやかへすらん。 シテ「山藍に。摺れる衣の色添へて。 地「神も御影や移り舞。 シテサシ「実にやそのかみに祈りし事は忘れじを。 地「あはれはかけよ加茂の川波。立ち帰り来て年月の。誓ひを頼む逢瀬の末。 シテ「憐み垂れて玉簾。 地「かゝる気色を守り給へ。 クセ「我も其。しでに涙ぞかゝりにき。又いつかもと思ひ出でしまゝ。涙ながらに立ち別れて。都にも心とめじ。東路の末遠く。聞けば其名もなつかしみ。思ひ乱れし信夫摺。誰ゆゑぞ如何にと。かこたんとする人もなし。鄙の長路におちぶれて。尋ぬるかひも泣く〳〵。其面影の見えざれば。猶行く方の覚束なく。三河に渡す八橋の。蜘蛛手に物を思ふ身は。何処をそこと知らねども。岸辺に波を掛川。小夜の中山中々に。命の内は白雲の。又越ゆべしと思ひきや。 シテ「花紫の藤枝の。 地「幾春かけて匂ふらん。馴れにし旅の友だにも。心岡部の宿とかや。蔦の細道分け過ぎて。着馴衣を宇津の山。現や夢になりぬらん。見聞くに付けて憂き思ひ。猶こりずまの心とて。又帰りくる都路の。思ひの色や春の日の。光りの影も一しほの。 シテ「柳桜をこきまぜて。 地「錦をさらす縦緯の。霞の衣の匂やかに。立ち舞ふ袖も梅が香の。花やかなりし春過ぎて。夏もはや北祭。今日又花の都人。行きかふ袖の色々に。貴賤群集の粧ひも。ひるがへす袂なりけり。 地「月にめで。(舞) シテ「月にめで。花を詠めしいにしへの。 地「跡はこゝにぞ在原なる。 シテ「其業平の結縁の衆生に。 地「契り結ぶの。 シテ「神とや岩本の。 地「もとの身なれど仮の世に出でゝ。月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。春ならぬ思へば我も。 シテ「唯いつとなく。 地「唯いつとなく。そことも涙のみ思ひ居りて。我身一つの。憂き世の中ぞ悲しき。 ロンギ地「始めより。見れば正しくそれぞとは。思へど人目つゝましや。 シテ「人目をも。我は思はぬ身の行方。心迷ひの怪しくも。さすがにそれぞと知るけしき。恥かしければ言ひあへず。 地「よしや互に白真弓。帰る家路は住み馴れし。 シテ「五条あたりの夕顔の。 地「露の宿りは。 シテ「心あてに。 地「それかあらぬかの。空目もあらじあらたなる。神の誓ひを仰ぎつゝ。さらぬやうにて引き別れて。此河島の行末は。逢ふ瀬の道になりにけり。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著