清経
世阿弥作 ワキ 淡津三郎 ツレ 女 シテ 左中将清経 地は 京都 季は 冬 ワキ次第「八重の汐路の浦の波。八重の汐路の浦波。九重にいざや帰らん。 詞「是は左中将清経の御内に仕へ申す。淡津の三郎と申す者にて候。さても頼み奉り候ふ清経は。過ぎにし筑紫の軍に打ちまけ給ひ。都へはとても帰らぬ道芝の。雑兵の手にかゝらんよりはと思し召しけるか。豊前の国柳が浦の沖にして。更け行く月の夜船より身を投げ空しく為り給ひて候。又船中を見奉れば。御形見に鬢の髪を残し置かれて候ふ間。かひなき命助かり。御形見を持ち。唯今都へ上り候。 道行「此程は。鄙の住居に馴れ〳〵て。〳〵。たま〳〵帰る故郷の。昔の春に引きかへて。今は物うき秋暮れて。はや時雨ふる旅衣。しをるゝ袖の身のはてを。忍び〳〵に上りけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早都に着きて候。如何に案内申し候。筑紫より淡津の三郎が参りて候ふそれ〳〵御申し候へ。 ツレ「何淡津の三郎と申すか。人までもなし此方へ来り候へ。さて只今は何の為めの御使にてあるぞ。 ワキ「さん候面目もなき御使に参りて候。 ツレ「面目もなき御使とは。若し御遁世にてあるか。 ワキ「いや御遁世にても御座なく候。 ツレ「過ぎにし筑紫の軍にも御つゝがなきとこそ聞きつるに。 ワキ「さん候過ぎにし筑紫の軍にも御つゝが御座なく候ひしが。清経心に思し召すやうは。都へはとても帰らぬ道芝の。雑兵の手にかゝらんよりはと思し召されけるか。豊前の国柳が浦の沖にして。更け行く月の夜船より身を投げ空しくなり給ひて候。 ツレ「なに身をなげ空しくなり給ひたるとや。恨めしやせめては討たれもしは又。病の床の露とも消えなば。力なしとも思ふべきに。我と身を投げ給ふ事。偽りなりつるかねことかな。実に恨みても其かひの。なき世となるこそ悲しけれ。 下歌地「何事もはかなかりける世の中の。 上歌「此程は。人目をつゝむ我宿の。〳〵。垣ほの薄吹く風の。声をも立てず忍音に。泣くのみなりし身なれども。今は誰をか憚りの。有明月の夜たゞとも。何か忍ばん時鳥。名をも隠さで鳴く音かな。〳〵。 ワキ詞「又船中を見奉れば。御形見に鬢の髪を残し置かれて候。是を御覧じて御心を慰められ候へ。 ツレ「是は中将殿の黒髪かや。見れば目もくれ心消え。猶も思ひのまさるぞや。見る度に心尽しの髪なれば。憂さにぞかへす本の社にと。 地「手向けかへして夜もすがら。涙と共に思寝の。夢になりとも見え給へと。寐られぬにかたぶくる。枕や恋を知らすらん。〳〵。 シテサシ「聖人に夢なし誰あつて現と見る。眼裏に塵あつて三界すぼく。心頭無事にして一生ひろし。実にや憂しと見し世も夢。つらしと思ふも幻の。いづれ跡ある雲水の。行くも帰るも閻浮の故郷に。たどる心のはかなさよ。転寐に恋しき人を見てしより。夢てふ者は頼み初めてき。如何にいにしへ人。清経こそ参りて候へ。 ツレ「不思議やなまどろむ枕に見え給ふは。実に清経にてましませども。正しく身を投げ給へるが。夢ならで如何で見ゆべきぞ。よし夢なりとも御姿を。見々え給ふぞ有難き。さりながら命を待たで我と身を。捨てさせ給ふ御事は。偽りなりけるかねことなれば。唯恨めしう候。 シテ「さやうに人をも恨み給はゞ。我も恨みは有明の。 詞「見よとて送りし形見をば。何しに返させ給ふらん。 ツレ「いやとよ形見を返すとは。思ひあまりし言の葉の。見る度に心づくしの髪なれば。 シテ詞「うさにぞかへすもとの社にと。さしも贈りし黒髪を。あかずは留むべき形見ぞかし。 ツレ「愚と心得給へるや。慰めとての形見なれども。見れば思ひの乱髪。 シテ「分きて贈りしかひもなく。形見をかへすは此方の恨み。 ツレ「我は捨てにし命の恨み。 シテ「互にかこち。 ツレ「かこたるゝ。 シテ「形見ぞつらき。 ツレ「黒髪の。 地「恨みをさへに言ひそへて。〳〵。くねる涙の手枕を。ならべて二人が逢ふ夜なれど。恨むれば独寐の。ふし〴〵なるぞ悲しき。実にや形見こそ。中々憂けれ是なくは。忘るゝ事もありなんと。思ふもぬらす袂かな。〳〵。 シテ詞「古への事ども語つて聞かせ申し候ふべし。今は恨みを御晴れ候へ。さても九州山鹿の城へも。敵よせ来ると聞きし程に。取る物も取りあへず夜もすがら。高瀬船に取り乗つて。豊前の国柳といふ所に着く。 地「実にや所も名を得たる。浦は並木の柳蔭。いと仮初の皇居を定む。 シテ「それより宇佐八幡に御参詣あるべしとて。 地「神馬七疋。其外金銀種々の捧物。即ち奉幣のためなるべし。 ツレ「かやうに申せば猶も身の。恨みに似たる事なれども。さすがに未だ君まします。御代のさかひや一門の。果をも見ずして徒に。御身一人を捨てし事。誠によしなき事ならずや。 シテ「実に〳〵是は御理りさりながら。頼みなき世のしるしの告。語り申さん聞き給へ。 地「そも〳〵宇佐八幡に参籠し。さま〴〵祈誓怠らず。数の頼みを掛巻も。忝くもみとしろの。錦の内より新なる。御声を出だしてかくばかり。 シテ「世の中の宇佐には神もなき物を。何いのるらん心づくしに。 地「さりともと思ふ心も虫の音も。弱りはてぬる秋の暮かな。 シテ「さては仏神三宝も。 地「捨てはて給ふと心細くて。一門は。気を失なひ力を落して。足弱車のすご〳〵と。還幸なし奉る。あはれなりし有様。 クセ「かゝりける処に。長門の国へも。敵むかふと聞きしかば。また船に取り乗りて。何くともなくおし出だす。心の内ぞあはれなる。実にや世の中の。うつる夢こそ誠なれ。保元の春の花。寿永の秋の紅葉とて。散々になり浮ぶ。一葉の船なれや。柳が浦の秋風の。追手がほなる跡の波。白鷺の群れ居る松見れば。源氏の旗をなびかす。多勢かと肝を消す。こゝに清経は。心にこめて思ふやう。さるにても八幡の。御託宣あらたに。心魂に残ることわり。誠正直の。頭にやどり給ふかと。唯一筋に思ひ取り。 シテ「あぢきなや。とても消ゆべき露の身を。 地「猶置き顔に浮草の。波に誘はれ。船にたゞよひていつまでか。憂き目を水鳥の。沈みはてんと思ひ切り。人には言はで岩代の。待つ事ありや暁の。月に嘯く気色にて。船の舳板に立ちあがり。腰よりやうでう抜き出だし。音も速に吹き鳴らし。今様を歌ひ朗詠し。来し方行く末をかゞみて。終にはいつかあだ波の。帰らぬは古へ。止まらぬは心づくしよ。此世とても旅ぞかし。あら思ひ残さずやと。よそ目にはひたふる。狂人と人や見るらん。よし人は何とも。見る目を仮の夜の空。西にかたぶく月を見れば。いざや我もつれんと。南無阿弥陀仏弥陀如来。迎へさせ給へと。唯一声を最期にて。舟よりかつぱと落汐の。底の水屑と沈みゆく。うき身の果ぞ悲しき。 ツレ「聞くに心もくれはとり。憂き音に沈む涙の雨の。恨めしかりける契りかな。 シテ「いふならく。那落も同じうたかたの。あはれは誰もかはらざりけり。さて修羅道に遠近の。 地「さて修羅道に遠近の。たづきは敵雨は矢先。土は清剣山は鉄城。雲の旗手をついて。憍慢の剣をそろへ。邪見の眼の光り。愛欲とのゐちつうげん道場。無明も法性も。乱るゝ敵打つは波。引くは潮。西海四海の因果を見せて。是までなりや誠は最期の。十念みだれぬ御法の船に。頼みしまゝに疑ひもなく。実にも心は清経が。〳〵。仏果を得しこそ有難けれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著