西行桜
禅竹作 ツレ男都人 立衆一同 花見の人々 ワキ 西行 狂言 寺男 シテ 桜の精 地は 山城 季は 三月 立衆一同次第「頃待ち得たる桜狩。〳〵。山路の春に急がん。 男詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居仕る者にて候。さても我春になり候へば。こゝかしこの花をながめ。さながら山野に日を送り候。昨日は東山地主の桜を一見仕りて候。今日は又西山西行の菴室の花。盛なるよし承り及び候ふ程に。花見の人々を伴なひ。唯今西山西行の菴室へと急ぎ候。 一同道行「百千鳥。囀る春は物毎に。〳〵。あらたまりゆく日数経て。頃も弥生の空なれや。やよとゞまりて花の友。知るも知らぬも諸共に。誰も花なる心かな。〳〵。 男詞「急ぎ候ふ程に。是はゝや西行の菴室に着きて候。暫く皆々御待ち候へ。某案内を申さうずるにて候。如何に案内申し候。 狂言「誰にて渡り候ふぞ。 男「さん候是は都方の者にて候ふが。此御菴室の花。盛なる由承り及び。遥々是まで参りて候。そと御見せ候へ。 狂言「易き間の御事にて候へども。禁制にて候ふさりながら。御機嫌を見てそと申して見うずるにて候。暫く御待ち候へ。 男「心得申し候。 ワキサシ「夫れ春の花は上求本来の梢に顕はれ。秋の月下化冥暗の水に宿る。誰か知る行く水に。三伏の夏もなく。澗底の松の風。一声の秋を催す事。草木国土おのづから。見仏聞法の結縁たり。 詞「さりながら四つの時にも勝れたるは花実の折なるべし。あらおもしろや候。 狂言「日本一の御機嫌にて候ふやがて申さう。如何に申し候。都より此御庭の花を見たき由申して。是まで皆々御出でにて候。 ワキ詞「何と都よりと申して。此菴室の花をながめん為めに。是まで皆々来り給ふと申すか。 狂言「さん候。 ワキ「およそ洛陽の花盛。何処もと云ひながら。西行が菴室の花。花も一木我も独りと見る物を。花故ありかを知られん事いかゞなれども。是まで遥々来りたる志を。見せでは如何で帰すべき。あの柴垣の戸を開き内へ入れ候へ。 狂言「畏つて候。如何に方々へ申し候。よき御機嫌に申して候へば。見せ申せとの御事にて候ふ程に。急いで此方へ御出で候へ。 男詞「心得申し候。 花見一同「桜花咲きにけらしな足引の。山のかひより見えしまゝ。此木の本に立ち寄れば。 ワキ「我は又心ことなる花の本に。飛花落葉を観じつゝ。独り心を澄ます処に。 一同「貴賤群集の色々に。心の花も盛んにて。 ワキ「昔の春に帰る有様。 一同「隠れ所の山といへども。 ワキ「さながら花の。 一同「都なれば。 地「捨人も。花には何と隠家の。〳〵。所は嵯峨の奥なれども。春に訪はれて山までも。浮世のさがになる物を。実にや捨てゝだに。此世の外はなき物を。何くか終の住家なる。〳〵。 ワキ詞「如何に面々。是まで遥々来り給ふ志。かへす〴〵も優しうこそ候へさりながら。捨てゝ住む世の友とては。花独りなる木の本に。身には待たれぬ花の友。少し心の外なれば。花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜のとがには有りける。 地「あたら桜の陰暮れて。月になる夜の木の本に。家路忘れて諸共に。今宵は花の下伏して。夜と共にながめ明かさん。 シテ「埋木の人知れぬ身と沈めども。心の花は残りけるぞや。花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜のとがには有りける。 ワキ「不思議やな朽ちたる花の空木より。白髪の老人顕はれて。西行が歌を詠ずる有様。さも不思議なる仁体なり。 シテ詞「是は夢中の翁なるが。今の詠歌の心を猶も。尋ねん為めに来りたり。 ワキ「そもや夢中の翁とは。夢に来れる人なるべし。それに付きても唯今の。詠歌の心を尋ねんとは。歌に不審の有るやらん。 シテ詞「いや上人の御歌に。何か不審の有るべきなれども。群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜のとがには有りける。さて桜のとがは何やらん。 ワキ「いや是は唯浮世を厭ふ山住なるに。貴賤群集の厭はしき。心を少し詠ずるなり。 シテ詞「おそれながら此御意こそ。少し不審に候へとよ。浮世と見るも山と見るも。唯其人の心にあり。非情無心の草木の。花に浮世のとがはあらじ。 ワキ「実に〳〵是は理なり。さて〳〵かやうに理をなす。御身は如何さま花木の精か。 シテ「誠は花の精なるが。此身も共に老木の桜の。 ワキ「花物いはぬ草木なれども。 シテ「とがなき謂れを木綿花の。 ワキ「影唇を。 シテ「動かすなり。 地「恥かしや老木の。花も少なく枝朽ちて。あたら桜のとがの。なき由を申し開く。花の精にて候ふなり。およそ心なき草木も。花実の折は忘れめや。草木国土皆。成仏の御法なるべし。 シテ詞「有難や上人の御値遇に引かれて。恵の露あまねく。花檻前に笑んで声いまだ聞かず。鳥林下に鳴いて涙尽き難し。 地クリ「夫れ朝に落花を踏んで相伴なつて出づ。夕には飛鳥に随つて一時に帰る。 シテサシ「九重に咲けども花の八重桜。 地「幾世の春を重ぬらん。 シテ「然るに花の名高きは。 地「まづ初花を急ぐなる。近衛殿の糸桜。 クセ「見渡せば柳桜をこき交ぜて。都は春の錦燦爛たり。千本の桜を植ゑ置き。其色を所の名に見する。千本の花盛。雲路や雪に残るらん。毘沙門堂の花盛。四王天の栄花も。是にはいかで勝るべき。上なる黒谷下河原。むかし遍昭僧正の。 シテ「浮世を厭ひし花頂山。 地「鷲の御山の花の色。枯れにし鶴の林まで。思ひ知られてあはれなり。清水寺の地主の花。松吹く風の音羽山。こゝは又嵐山。戸無瀬に落つる滝つ波までも。花は大井河。井関に雪やかゝるらん。 シテ「すはや数添ふ時の鼓。 地「後夜の鐘の音響きぞ添ふ。 シテ詞「あら名残惜しの夜遊やな。惜しむべし〳〵得難きは時。逢ひ難きは友なるべし。春宵一剋価千金。花に清香月に陰。春の夜の。（序の舞） ワカ「花の陰より明け初めて。 地「鐘をも待たぬ別れこそあれ。別れこそあれ。〳〵。 シテ「待てしばし待てしばし。夜はまだ深きぞ。 地「白むは花の陰なりけり。よそはまだ小倉の山陰に。残る夜桜の花の枕の。 シテ「夢は覚めにけり。 地「夢は覚めにけり。嵐も雪も散り敷くや。花を踏んでは同じく惜しむ少年の。春の夜は明けにけりや。翁さびて跡もなし。〳〵。 底本：国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著
