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春栄

世阿弥作

ワキ 高橋権頭
シテ 増尾種直
トモ 小太郎
狂言 高橋従者
子方 増尾春栄丸

地は 伊豆
季は 雑

ワキ詞「是は高橋権の頭にて候。さても此度宇治橋の合戦に味方打ち勝ち。分捕功名数をつくす。某が手にも囚人あまた候ふ中にも。春栄殿と申す幼き人を生け捕り申して候。此由を申し上げて候へば。近きほどに誅し申せとの御事にて候ふ間。春栄殿へ此由を申さばやと存じ候。
二人次第「散らぬ先にと尋ね行く。〳〵。花をや風の誘ふらん。
シテ詞「是は武蔵の国の住人。増尾の太郎種直にて候。さても宇治橋の合戦に弓手の肩を射させ。其矢を抜かんと少し傍に引き退き候ふ間に。弟にて候ふ春栄深入りし。やみ〳〵と生捕られて候。承り候へば。生捕何れも近き程に誅せらるゝ由申し候ふ間。某も囚人の数に入らばやと存じ。只今春栄がありかへと急ぎ候。
道行「住み馴れし。都の空は雲井にて。〳〵。朝立ち添ふる旅衣。日も重なりて行く程に。名にのみ聞きし伊豆の国府。三島の里に着きにけり。〳〵。
シテ詞「急ぎ候ふほどに。伊豆の三島に着きて候。此処にて囚人の奉行をば。高橋とやらん申し候。尋ねて対面申したきよし申し候へ。
トモ詞「畏つて候。如何に案内申し候。囚人奉行高橋殿と申すは何くに御坐候ふぞ。
狂言「何の御用にて候ふぞ。頼みたる人の事にて候。
トモ「いや苦しからぬ者にて候。是は春栄殿のゆかりの者にて候。高橋殿へそと御目にかゝりたき事の候ひて是まで参りて候。其由をよく〳〵御心得あつて御申し候へ。
狂言「心得申し候。囚人のゆかりの人は堅く禁制にて候へども。春栄殿の御事は頼み候ふ人別して痛はり申され候ふ間。其由を申して見候ふべし。暫く御待ち候へ。
トモ「心得申し候。
狂言「如何に申し候。春栄殿のゆかりと申して若き男の来り候ひて。御目にかゝりたきよし申し候ふ間。かたく御禁制にて候へども。春栄殿の御事にて候ふ間申し入れて見うずる由申して候。
ワキ詞「何と春栄殿のゆかりの人と申して。某に対面ありたき由申すか。汝も知る如く。囚人のゆかりに対面は禁制にて候へども。春栄殿の御事は別して痛はり申し候ふ間。そと対面申さうずるにて候。さりながら大法の事にて候ふ間。太刀刀をあづかり候へ。
狂言「畏つて候。いかに申し候。只今の通りを申して候へば。かたく禁制にて候へども。春栄殿のゆかりの御事にて候ふほどに。そと御目にかゝらうずると申され候。さらば太刀かたなを給はり候へ。
トモ「心得申し候。尋ね申して候へば。春栄殿のゆかりならば。高橋別して痛はり申し候ふ間。対面申さうずる由申され候。さりながら大法にて候ふ程に。太刀かたな禁制の由申し候。
シテ「さらば太刀刀を参らせ候ふべし。
ワキ「春栄殿のゆかりと仰せ候ふはいづくに渡り候ふぞ。
シテ「さん候是に候。
ワキ「是は春栄殿の為めには何にて渡り候ふぞ。
シテ「是は春栄が兄に。増尾の太郎種直と申す者にて候ふが。今度宇治橋の合戦に弓手の肩を射させ。其矢をぬかんと少し傍に引き退き候ふ間に。弟にて候ふ春栄深入し生け捕られて候ふ間。余りに見捨て難く候へば。某も一所に誅せられん為めに遥々是まで参りて候。春栄に引き合はせられて賜はり候へ。
ワキ「委細承り候。是までの御出で誠にゆゝしく候。やがて其由を春栄殿へ申し候ふべし。暫く御待ち候へ。
シテ「心得申し候。
ワキ詞「いかに春栄殿へ申し候。御身の御舎兄に。増尾の太郎種直と御名のり在つて。是まで御出でにて候。急いで御対面候へ。
春栄詞「是は誠しからず候。兄にて候ふ者は。宇治橋の合戦にて重手おひ。存命不定とこそ承り候ひつれ。
ワキ「あら不思議や。正しく御舎兄と仰せ候ふ物を。さりながら物の隙よりそと御覧候へ。
春栄「不思議なる事にて候。譜代召し使ひ候ふ家人にて候ふ間。急ぎ追つ帰して賜はり候へ。
ワキ「さては誠に家人にて候ふか。さあらばやがて追つ帰し候ふべし。如何に以前の人の渡り候ふか。
シテ「是に候。
ワキ「仰せの通りを申して候へば。物の隙より御覧候ひて。兄にてはなし。譜代召しつかはるゝ家人なれば。急ぎ追つ帰し申せとの御事にて候。何とて聊爾なる事をば承り候ふぞ。
シテ「暫く。まづ御心を静めて聞し召され候へ。家人の身として兄と名のり。一所に誅せらるゝ事の候ふべきか。如何やうにも御沙汰候ひて。引き合はせられて賜はり候へ。某対面して。家人か兄かの勝劣を見せ申し候ふべし。
ワキ「実に実に是は尤にて候。さらば某たばかつて呼び出だし候ふべし。其時御袖にすがられて委しく仰せ候へ。
シテ「心得申し候。さらば是に待ち申し候ふべし。
ワキ詞「如何に春栄殿に申し候。只今かの者をばあら〳〵と申し追つ帰して候ふさりながら。彼者の心中あまりに不便に候ふ間。うしろ姿をそと御覧候へ。此方へ渡り候へ。
シテ詞「如何に春栄。何とて某をば家人とは申すぞ。さても此度宇治橋の合戦に弓手の肩を射させ。其矢をぬかんと少し傍に引き退き候ふ隙に。御身は深入して生捕られたり。其際の先途をも見届けざれば。家人といふ事弟ながらも恥かしうこそ候へさりながら。一処に誅せられん為めに。是まで遥々来りたるに。何とて家人とは申すぞ。
春栄「いかに汝は三世のよしみを思ひ。是まで遥々きたりたる心ざし。返す〴〵もやさしけれさりながら。汝は故郷に帰り。母御に申すべきやうは。春栄こそ誅せられ候へ。逆さまなる御弔ひにこそ預かり候ふべけれとよく〳〵申し候へ。
シテ「猶も家人と申すか。深山木のその梢とは見えざりし。桜は花に顕はれにけり。何と家人と朽たすとも。終には隠れよもあらじ。
春栄「時を得て早くもそだつ夏木立。其木をそれと見るべきか。早とく帰れと叱りけり。
シテ「山皆染むる梢にも。松は変はらぬ習ひぞかし。
春栄「一千年の色とても。雪にはしばし隠るゝなり。
シテ「是を物に喩ふれば。殷のやうかは父を討ち。
春栄「秦のかくいは師匠を討つ。
シテ「今の増尾の春栄は。
春栄「現在の兄を家人といふ。
シテ「是は逆罪たるべきに。
春栄「誠は深き孝行なり。
シテ「いやとにかくに命を捨つるまで。種直これにて腹切らん。や。刀は参らせつ。御芳志に刀を賜はり候へ。
春栄「なふ〳〵暫くこはいかに。
地「命を助け申さんとてこそ。家人とは申しつれ。忠が不忠になりけるか。許させ給へ兄御前。〳〵。
地「種直も春栄も。〳〵。囚人守護の兵も。互の心を思ひやり。実に持つべきは兄弟なりとて。共に袂をぬらしけり。〳〵。
ワキ詞「言語道断。御兄弟の御心中を感じ申し。我等も落涙仕りて候。如何に種直に申し候。某春栄殿を痛はり申す事余の儀にあらず。某子を一人持ちて候ふを。宇治橋の合戦に討たせて候ふが。此春栄殿の面ざし少しも違はず候ふ間。天晴御命も助かり給ひ候へかし。某申し受け遺跡を継がせ申し度きとの念願にて候。や。何と申すぞ。是は誠にてあるか。あら何ともなや。只今申しつる事も徒事にて候。又鎌倉より早打立つて。箱根を越さぬ先に。囚人を皆誅し申せと仰せ出だされて候。御痛はしながら力なき事。春栄殿も御最期の御用意をさせ申され候へ。また種直は急いで故郷へ御帰り候へ。
シテ「暫く候。春栄が事は幼き者の事にて候ふ間。春栄を助け。某を誅して賜はり候へ。
ワキ「仰せはさる事にて候へども。はや目録にて御目にかけて候ふ間。中々叶ひ申すまじく候。
シテ「仰せはさる事にて候へども。ひらに私を以て春栄を助け。某を誅して賜はり候へ。
ワキ「是は尤にて候へども。中々左様にはなるまじく候。
シテ「さては力なき事。是まで遥々きたり候ひて。春栄が最期を見捨て帰る事はあるまじく候ふ間。某をも一処に誅して賜はり候へ。
ワキ「それはともかくもにて候。
シテ詞「如何に春栄故郷へ形見を送り候へ。いかに小太郎。お事は国に帰り母御に申すべきやうは。春栄が最期の有様あまりに見捨て難く候ふ程に。諸共に誅せられ候。逆さまなる御弔ひにこそ預かり候ふべけれとよく〳〵申し候へ。是なる守りは種直が。母御の方より賜はりたる。守仏の観世音。種直が形見に御覧候へと。よく〳〵申し候へ。
春栄「是なる文は春栄が。最期の文にて候ふなり。又形見には烏羽玉の。我黒髪の裾を切り。さばかり明暮一筋を。千筋と撫でさせ給ひし髪を。春栄が形見に参らする。
シテ「あら定めなやさるにても。我こそ残りて御跡を。弔ふべきにさはなくて。成人の子をば先立てゝ。
地「歎き給はん母上の。御心の内。思ひやられて痛はしや。
地クリ「実にや生きとし生ける物。何れか父母を悲しまざる。必ず一世に限るべからず。世々以つて父母の数々なり。
シテサシ「それ十二因縁より二十五有の沈淪。生じては死し死しては生じ。
地「流転にめぐる事。生々の親子。皆以つて誰か又自他ならん。
シテ「然れば羊鹿牛車に乗り。
地「火宅の界を出でずして。煩悩業苦の三つの綱に。繋がれ来ぬるはかなさよ。
クセ「それ生死に流転して。人間界に生るれば。八つの苦しみ離れず。過去因果経を惟みよ。殺の報殺の縁。たとへば車輪の如く。我人を失へば。かれまた我を害す。世々生涯。苦しみの海に浮き沈みて。御法の舟橋を。渡りもせぬぞ悲しき。殊更此国は。神国といひながら。又は仏法流布の時。教への法もさかんなり。殊に処はあづまがた。仏法東漸にあり。有明の月の。わづかなる人界。急いで来迎の夜念仏。声清光に弥陀の国の。涼しき道ならば。唯心の浄土なるべし。
シテ「処を思ふも頼もしや。
地「こゝは東路の。故郷を去つて伊豆の国府。南無や三島の明神。本地大通智勝仏。過去塵点の如くにて。黄泉中有の旅の空。長闇冥の巷までも。我らを照らし給へと。深くぞ祈誓申しける。雪の古枝の枯れてだに。二度花や咲きぬらん。
早打「いかに高橋殿。鎌倉よりの早打なり。暫く御待ち候へとよ。
ワキ「すは又早打きたれるは。遅し切れとの御使か。
早打「いや若宮別当の申しにより。囚人七人の免状なり。
ワキ「さて春栄殿は。
早打「七人の内。
ワキ「あゝ嬉しゝ〳〵まづ読まん。何々若宮別当の申しにより。囚人七人免状の事。第一番には別当の御弟豊前の前司。第二番には豊後の次郎。第三番には増尾の春栄丸。残りは先々読みても無益。はや助くるぞ春栄と。
地「太刀の下より引きたてゝ。命助かる兄弟は。嬉しさも中々に。思はぬほどの心かな。今の心は獣の。雲に吠えけん心地して。千々の情ありがたき。兄弟のよしみこそ。誠にあはれなりけれ。
ワキ詞「いかに種直に申し候。以前も申す如く。春栄殿の御事天晴御命も助かり給ひ候へかし。申し受け某が一跡を継がせ申したきとの念願かなひて候。此上は賜はり候へ。
シテ詞「実に此上は参らせ給ふべし。
ワキ「今日は殊更最上吉日なれば。家に伝はる重代の太刀。春栄殿に奉り。重ねて千秋万歳の。
地「猶よろこびの盃の。影もめぐるや朝日影。伊豆の三島の神風も。吹き治むべき代の始め。幾久しさとも限らじや。嘉辰令月とは。此時をいふぞめでたき。猶々めぐる盃の。度かさなれば春栄も。お酌に立ちて親と子の。定めをいはふ祝言の。千秋万歳の舞の袖。ひるがへし舞ふとかや。
シテ「千代に八千代にさゞれ石の。
地「いはふ心は万歳楽。
ワキ詞「いかに種直。かゝるめでたき折なれば一指御舞ひ候へ。
シテ「さらばそと舞はうずるにて候。
地「祝ふ心は万歳楽。(男舞)
シテ「東路の。秩父の山の松の葉の。
地「千世の陰そふ若緑かな。若緑かな。〳〵。
シテ「老木も若緑。
地「立つや若竹の。
シテ「親子の睦び。
地「又は兄弟。彼といひ是といひ。いづれも〳〵睦ましく。親子兄弟と栄ふる事も。是れ孝行を守り給ふ。三島の宮の御利生と伏し拝み。親子兄弟さも睦ましく打ちつれて。鎌倉へこそ参りけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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