俊成忠度　古名　五条忠度

内藤左衛門作　河内守作とも

ワキ　岡部六弥太
トモ　俊成従者
ツレ　藤原俊成
シテ　平忠度

地は　京都
季は　春

ワキ詞「かやうに候ふ者は。武蔵の国の住人。岡部の六弥太忠澄にて候。さても今度西海の合戦に。薩摩の守忠度をば。某が手に懸け失ひ申して候。御最期の後尻籠を見奉れば。短冊の御座候。又承り候へば。五条の三位俊成卿と。和歌の御値遇の由申し候ふ間。此短冊を持ちて参り。俊成卿の御目にかけばやと存じ候。如何に案内申し候。
トモ「誰にて渡り候ふぞ。
ワキ「岡部の六弥太忠澄が参りたる由御申し候へ。
トモ「心得申し候。如何に申し上げ候。
俊成「何事にて有るぞ。
トモ「岡部の六弥太忠澄の伺候申されて候。
俊成「此方へと申し候へ。
トモ「畏つて候。此方へ御参り候へ。
ワキ「心得申し候。
俊成「いかに忠澄。さて唯今は何の為めに来り給ひて候ふぞ。
ワキ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。西海の合戦に薩摩の守忠度をば。某が手に懸け失ひ申して候。御最期の後尻籠を見候へば短冊の御座候。承り候へば。忠度とは浅からぬ和歌の御値遇の由承り候ふ間。御目に懸けばやと存じ。唯今持ちて参りて候。
俊成「此方へ賜はり候へ。実にや弓馬の道ならねど。いつしか世に名を残し置き給ふ事のあはれさよ。何々旅宿の花と云ふ題にて。行き暮れて木の下陰を宿とせば。花や今宵の主ならまし。
地「痛はしや忠度は。〳〵。破戒無慙の罪を恐れ。仁義礼智信。五つの道も正しくて。歌道に達者たり。弓矢に名をあげ給へば。文武二道のたゞのりの。船を得て彼岸の。台に至り給へや。〳〵。
シテサシ「前途程遠し。思ひを雁山の夕べの雲に馳す。八重の汐路に沈みし身なれども。猶九重の春に引かれ。共に詠めし花の色。我面影や見えつらん。命唯心に叶ふものならば。何か別れの物憂かるべき。如何に俊成卿。忠度こそ是まで参りて候へ。
俊成「不思議やな夢現とも分かざるに。薩摩の守の御姿。顕はれ給ふ不思議さよ。
シテ詞「さても千載集に。一首の歌を入れさせ給ふ御志は嬉しけれども。よみ人知らずと書かれし事心にかゝり候。
俊成「尤それはさる事なれども。朝敵の御名を顕はさんは世の憚りなり。よしや此歌あるならば。御名は隠れよもあらじ。御心安く思し召せ。
シテ「我もさこそと白雪の。古き世までも歌あらば。
俊成「其名もさすが武蔵鐙。隠れはあらじ我人の。
シテ「情の末も深見草。
俊成「引くや詠歌も心ある。
シテ「故郷の花といふ題にて。
地「さゝ波や。志賀の都は荒れにしを。志賀の都は荒れにしを。昔ながらの山桜かなと。よみしも永き世の。誉を残す詠歌かな。実にや浮世は電光。胡蝶の夢の戯れに。歌へや舞へや津の国の。何はの事も唯法なり。疑はせ給ふな。われ疑はせ給ふな。
俊成サシ「凡そ歌には六義あり。是れ六道の巷に詠じ。
地「千早振る神代の歌は。文字の数も定めなし。
シテ「其後天照太神の御兄。
地「素盞鳴尊より。三十一字に定め置きて。末世末代のためしとかや。
クセ「其故は。素盞鳴尊の。女と住み給はんとて。出雲の国にいまして。大宮作りせし所に。八色雲の立つを御覧じて。尊の一首の御詠かくばかり。八雲立つ。出雲八重垣妻ごめに。八重垣つくる其八重垣をと。神詠もかたじけなや。今の世のためしなるべし。さても我須磨の浦に。旅寐して詠めやる。明石の浦の朝霧と。よみしも思ひ知られたり。
シテ「人丸世になくなりて。
地「歌の事留まりぬと。紀の貫之も躬恒も。かくこそ書き置きしかども。松の葉の散り失せず。正木のかづら長く伝はり。鳥の跡あらん其程は。よも尽せじな敷島の。歌には神も納受の。男女夫婦の媒とも。此歌の情なるべし。あら名残惜しの夜すがらやな。
俊成「不思議や見れば忠度の。けしき変はりてけうとき有様。こはそも如何なる事やらん。
シテ「あれ御覧ぜよ修羅王の。梵天に攻め上るを。帝釈出で逢ひ修羅王を。もとの下界に追つ下す。
地「すは敵陣は乱れ合ひ。〳〵。をめき叫べば忠度も。嗔恚の焰は荒礒の。波の打物抜いて。切つてかゝれば敵人は。矛を揃へてかゝり給へば。忠度相向つて打ち払へば。そのまゝ見えず。敵を失ひあきれて立てば。天よりは火車降りかゝり。地よりは鉄刀足を貫き。立つも立たれず。居るも居られぬ修羅王の責。こは如何にあさましや。
シテ「やゝ有つてさゝ波や。
地「やゝ有つてさゝ波や。志賀の都は荒れにしを。昔ながらの山桜かなと。梵天感じ給ひしより。剣の責を免れて。くら闇となりしかば。灯を背けては。共に憐む深夜の月。花を踏んでは同じく惜しむ。少年の春の夜も。早白々と明け渡れば。有りつる姿は消え〳〵と。有りつる姿は鶏籠の山。木隠れて失せにけり。跡木隠れて失せにけり。

底本：国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著