💡 鑑賞の手引き 現行の「墨染桜」は古作を大幅に省略した内容となっています。復曲能として、古作の内容で上演されることがあります。
墨染桜 別名 岑雄
シテ 桜の精 ワキ 僧(上野岑雄) 所 山城深草の里 時 三月 次第「色香もさぞな深草の。〳〵。野辺の桜を尋ねん。 僧サシ「是は深草の旧院に仕へ申せし。岑雄がなれの果なり。我御在位の御時は。朝恩身にあまりしかども。時代にかはるならひとて。雲井を余所に都住居も。心とまらぬ此春かな。誠や聞ば良峰の少将殿も。先帝の別れを悲しみ給ひて。比叡山にて遁世と聞。独りに限らぬ思ひの色。深草山に分入て。古院の常に叡覧ありし。花をもせめて詠めんと。 下歌「都出れば日も既に。竹田の里は是れ哉らん。 上歌「一夜伏見の夢にだに。〳〵。思ひ絶にし別路の。すゑこそ知らね深草の。花はむかしにかはらず。〳〵。 サシ「我御陵のあたり近く。参りて見れば浅間しや。人跡絶たる木のもとは。猶深草の花の色。誰とがむる気色もなく。しん〳〵とある古柳。疎槐の跡。秋の色あるけしきかな。何となく思ひよりたる一首の詠歌。此花の枝にむすび付て。帰らばやと思ひ候。 シテ「荒面白の御歌やな。有難の今の御詠歌やな。 ワキ「不思議やな。花を詠むる。友かと見ればさはなくして。 詞「短冊計詠め給ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「何。短冊を見るこそ。花を詠るにて候へとよ。此花ならではいかにして。かゝる詠歌もましますべき。唯今手向の御詞にも。深草の野辺のさくらし心あらば。この春計墨染に。 同「咲共今は恨めしや。〳〵。憂世の春のあだ桜。風吹ぬ間にあるべきか。あぢきなのならひや。 シテロンギ「実や世の中は。何か常なるあだ花の。夢に散まぼろしに。別れて跡も残らず。 同「よしやちれ十善の。梢の花も恨みなし。誰かありや果べき。 シテ「偖此春は雲霞。 同「深草山の月の影。てらし果ぬぞ悲しき。 シテ「扨や帝の御為に。世を捨人は誰々ぞ。 地「良峰の宗貞。我上野の岑雄なり。 シテ「よしや良峰。 地「又は岑雄にも。 シテ「をとるまじ。我も世を捨衣。 地「君がためなるたきものゝ。梅が香ながらくろかみの。存らへ果ぬ世の中に。何と我はかみつけの。岑雄の御弟子と成べし。様かへてたび給へ。 ワキ「是は仰にて候へども。我等は昨日やけふの初発心にて候程に。思ひもよらぬ事にて候。 シテ「仰は去事にて候得共。仏も三十成道と申せば。初発心とこそ申べけれ。過去久遠劫より以来。くもりはてぬる胸の月も。霊山会陽の暁を待。朽て久敷花の色も。鹿野園の夕に開く。よしや色こそ墨の衣。昨日今日にはよるべからず。たゞ童は愚かなる。女の身として御弟子とならば。其甲斐こそなけれ共。 カヽル「慈悲にそらせ給へや。 ワキ、カヽル「此上は辞退申に及ばずとて。盥に水を参らすれば。 シテ「嬉しや今こそ望たる。百年のつくもがみ。 ワキ「雲と見ればさはなくて。水の底なる俤の。さながら花にて候はいかに。 シテ「夫こそ道理。余所ながら深草の。 同「野辺の桜の木下。たらゐの水に花の蔭の。移るこそ理はりなれ。名残をしのおもかげや。実おとろへの悲しきは。天津乙女の花かづら。斯有難き値遇の縁。師弟子と成ぞ不思議なる。〳〵。 ワキ「扨唯今は何の為の御発心にて候ぞ。 シテ「さん候。唯今の発心は御詠歌ゆへ候よ。 ワキ「そも詠歌ゆへとは候。 シテ「唯今の御詠歌に。此春計とあそばしたり。此春計は情なし。此春よりとあそばさば。猶行末も久堅の。尽ぬ類ひの言葉を添て。 ワキ「とくや御法の言の葉は。深草の野辺の桜し心あらば。此春よりは墨染に咲し。 同「花は是迄青柳の。いとま申てさらばとて。立よと見ればうすがすみ。木の間の月の影すこし。花曇りして失せにけり。〳〵。(中入)シカ〴〵 ワキ「扨は此花の精顕はれて。我に言葉をかはしけるか。実や草木こゝろなし。花物いはずといへども。一仏成道観見法界。 後シテ「荒有難の御経やな。今一度唱へ給へ。聴聞申さふ。 ワキ、カヽル「不思議やな。ぬしは誰とも知らねども。声する方にむかひつつ。一仏成道観見法界。 シテ「扨後句は。 ワキ「草木国土。 シテ「悉皆成仏。 同「頼もしや。此文は中陰経の妙文。 シテ「たうとや我こそ草木国土に。 同「根をさし其色深草の。野辺の墨染桜と。顕はれたり。 クリ、地「夫色にそみ香にふるゝ類ひ。まち〳〵なりといへども。花といへば此木に限る事。思へば。桜の面目なり。 サシ「それ桜は諸木に勝れて。水を生ずる徳あり。 同「是に依て火災の恐れをなす事なし。さればにや。帝都を花洛と号し。陽花殿月華門。左近の桜に至るまで。此花の徳を禁中に移し。 シテ「主上此木にむかはせ給ふによつて。 同「玉簾に木向といふ紋を顕はす。 クセ、シテ「加程目出度桜の徳。誰かは仰がざるべき。中にも此桜は。旧院の御愛木。花の新に開くる日は。初陽の潤ほふ事を。悦こばせおはしまし。鳥の老て帰る時は。薄暮の曇れるをかなしみ給ひしに。無常の嵐吹来たり。花よりさきに散給ひぬ。なんぞ心なき。草木といふとも。歎きの色に出ざらん。此春計墨染に。咲との詠歌はづかしさに。花色の袖をかへ。墨染桜老木とて。元来きたる苔衣。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。 同「苔の袂よせめてなど。かはかざらめや雨と降。嵐にも誘はれ。日数にも散あだ桜。浮世の春を隠れ家と。墨染衣二月の。仏の御弟子と成ぞうれしかりける。 ロンギ、地「実や心なき。岩木と見るにかくばかり。結ばぬ夢の世の春を。驚きて捨人の。姿となるぞ不思議なる。 シテ「唯是とても御詠歌の。言の葉の。花をかざる。有難の教化や。 同「勝心なき木石も。 シテ「桜人と顕はれて。 同「声立て花の風。 シテ「桃李も物やいはつゝじ。 同「思ひ出たりいざさらば。御弟子となりし悦びに。舞一手かなでん。 次第「青葉を花の夕べとや。〳〵。墨染桜なるらん。(ラン拍子アリ) 地「や。深草のや。(舞アリ) シテ「深草の野辺の桜し。こゝろあらば。 地「此春計は墨染に咲。〳〵。すみぞめに。 シテ「花の袂も風ふかぬ程は。 同「雨にもさそはれ露にもしほれ。頼みすくなき花色ぎぬの。墨染桜の梢に残りて。根に帰る花とぞ成にける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編 墨染桜 前 ワキ 上野峰雄 シテ 里人 後 ワキ 前に同じ シテ 花の精 地は 山城 季は 三月 ワキ次第「色香もさぞな深草の。〳〵。野辺の桜を尋ねん。 詞「是は旧院に仕へ申しゝ峯雄がなれる果にて候。誠や良峯も御別れを悲しみ。比叡山に遁世と聞き。一人に限らぬ思ひの色。深草山に分け入りて。古院の常に叡覧有りし。花をもせめて詠めばやと思ひ候。 道行「都出づれば日も既に。竹田の里は是やらん。一夜伏見の夢にだに。〳〵。思ひ絶えにし別路の。末こそ知らね深草の。花は昔や慕ふらん。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。深草に着きて候。我此陵に来て見れば。人跡絶えたる木のもとは。猶深草の花の色。誰と咎むる気色もなし。何となく思ひ連ねて候。深草の野辺の桜し心あらば。此春ばかり墨染に咲け。此歌を短冊に写し。枝につけて帰らばやと思ひ候。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「今の詠歌の有難さに。是まで顕はれ参りたり。 ワキ「不思議やな花を詠むる友かと見ればさはなくて。今の詠歌の有難きとは。如何なる人にてましますぞ。 シテ「此花なくはいかにして。かゝる詠歌のましますべき。唯今手向の言の葉にも。深草の野辺の桜し心あらば。此春ばかり墨染に。 地「咲けども今は恨めしや。〳〵。浮世の春のあだ桜。風吹かぬ間も有るべきか。あぢきなの習ひやな。我も浮世を捨衣。君が為めなる焼物の。沈香ながら切髪の。ながらへはてぬ世の中に。様かへて給び給へ。我さまかへてたび給へ。 ワキ「さて何故の御発心にて候ふぞ。 シテ「是は御詠歌故侯ふよ。 ワキ「そも〳〵詠歌故とは侯。 シテ「唯今の御詠歌に。此春ばかりと遊ばしたる。此春ばかりを引きのけて。此春よりはと詠じ給はゞ。猶行末も久方の。尽きぬ逢瀬の言葉を添えて。 地「花は是まで青柳の。暇申してさらばとて。立つかと見れば薄霞。木の間の月の影闇く。花曇りして失せにけり。〳〵。(中入) ワキ詞「さては此花の精顕はれて。我に詞をかはしけるぞや。いざや成道なすべしと。 歌「説くや御法の言の葉は。〳〵。深草野辺の草衣。片敷く袖もうば玉の。墨の衣の旅寝かな。〳〵。 後ジテ一声「あら有難の御経やな。〳〵。 クリ「草木国土悉皆成仏。 地「実に頼もしや此文は。中陰経の妙文。 シテ「尊とや我こそ草木国土に。色香を見せて花の名の。 地「深草野辺の墨染桜。是見給へや御僧よ。 シテサシ「それ桜は諸木にすぐれ。水を生ずる徳あり。 地「是に依つて火難の恐れを為す事なし。されば帝都を花洛と号し。陽花殿月花門。左近の桜に至るまで。禁中に移し置かれたり。 シテ「主上此木に向はせ給ふ。 地「是によつて玉簾に。木向といふ紋を顕はすなり。 クセ「かほどめでたき花の徳。誰かは仰がざるべき。中にも此桜は。旧院の御愛木。花の新に開けし日は。初陽潤ふ御顔も。歓ばせおはしまし。鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる御気色。無常の嵐吹き来り。花より先に散り給ふ。心なき草木も。歎きの色に出でざらん。此春ばかり墨染に。咲けとの詠は恥かしや。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。 地「苔の袂やせめてなど。かわかざらめや雨と降り。嵐にだにも誘はれて。日数をめぐるあだ桜。うき世の春を隠家と。墨染衣衣更着の。仏の縁を受けつぎて。草木も成仏の。御法ぞ嬉しかりける。深草の。(舞) シテ「深草の野辺の桜し心あらば。 地「此春よりは墨染に咲け。墨染に咲け。〳〵。 シテ「花の袂も風吹かぬほどぞ。 地「雨にも誘はれ。 シテ「露にもしをれ。 地「契り少なき花衣。墨染桜こずゑに残る。霞も雲も明けゆく空に。〳〵。松風ばかりや音すらん。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著
墨染桜
前 ワキ 上野峰雄 シテ 里人 後 ワキ 前に同じ シテ 花の精 地は 山城 季は 三月 ワキ次第「色香もさぞな深草の。〳〵。野辺の桜を尋ねん。 詞「是は旧院に仕へ申しゝ峯雄がなれる果にて候。誠や良峯も御別れを悲しみ。比叡山に遁世と聞き。一人に限らぬ思ひの色。深草山に分け入りて。古院の常に叡覧有りし。花をもせめて詠めばやと思ひ候。 道行「都出づれば日も既に。竹田の里は是やらん。一夜伏見の夢にだに。〳〵。思ひ絶えにし別路の。末こそ知らね深草の。花は昔や慕ふらん。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。深草に着きて候。我此陵に来て見れば。人跡絶えたる木のもとは。猶深草の花の色。誰と咎むる気色もなし。何となく思ひ連ねて候。深草の野辺の桜し心あらば。此春ばかり墨染に咲け。此歌を短冊に写し。枝につけて帰らばやと思ひ候。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「今の詠歌の有難さに。是まで顕はれ参りたり。 ワキ「不思議やな花を詠むる友かと見ればさはなくて。今の詠歌の有難きとは。如何なる人にてましますぞ。 シテ「此花なくはいかにして。かゝる詠歌のましますべき。唯今手向の言の葉にも。深草の野辺の桜し心あらば。此春ばかり墨染に。 地「咲けども今は恨めしや。〳〵。浮世の春のあだ桜。風吹かぬ間も有るべきか。あぢきなの習ひやな。我も浮世を捨衣。君が為めなる焼物の。沈香ながら切髪の。ながらへはてぬ世の中に。様かへて給び給へ。我さまかへてたび給へ。 ワキ「さて何故の御発心にて候ふぞ。 シテ「是は御詠歌故侯ふよ。 ワキ「そも〳〵詠歌故とは侯。 シテ「唯今の御詠歌に。此春ばかりと遊ばしたる。此春ばかりを引きのけて。此春よりはと詠じ給はゞ。猶行末も久方の。尽きぬ逢瀬の言葉を添えて。 地「花は是まで青柳の。暇申してさらばとて。立つかと見れば薄霞。木の間の月の影闇く。花曇りして失せにけり。〳〵。(中入) ワキ詞「さては此花の精顕はれて。我に詞をかはしけるぞや。いざや成道なすべしと。 歌「説くや御法の言の葉は。〳〵。深草野辺の草衣。片敷く袖もうば玉の。墨の衣の旅寝かな。〳〵。 後ジテ一声「あら有難の御経やな。〳〵。 クリ「草木国土悉皆成仏。 地「実に頼もしや此文は。中陰経の妙文。 シテ「尊とや我こそ草木国土に。色香を見せて花の名の。 地「深草野辺の墨染桜。是見給へや御僧よ。 シテサシ「それ桜は諸木にすぐれ。水を生ずる徳あり。 地「是に依つて火難の恐れを為す事なし。されば帝都を花洛と号し。陽花殿月花門。左近の桜に至るまで。禁中に移し置かれたり。 シテ「主上此木に向はせ給ふ。 地「是によつて玉簾に。木向といふ紋を顕はすなり。 クセ「かほどめでたき花の徳。誰かは仰がざるべき。中にも此桜は。旧院の御愛木。花の新に開けし日は。初陽潤ふ御顔も。歓ばせおはしまし。鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる御気色。無常の嵐吹き来り。花より先に散り給ふ。心なき草木も。歎きの色に出でざらん。此春ばかり墨染に。咲けとの詠は恥かしや。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。 地「苔の袂やせめてなど。かわかざらめや雨と降り。嵐にだにも誘はれて。日数をめぐるあだ桜。うき世の春を隠家と。墨染衣衣更着の。仏の縁を受けつぎて。草木も成仏の。御法ぞ嬉しかりける。深草の。(舞) シテ「深草の野辺の桜し心あらば。 地「此春よりは墨染に咲け。墨染に咲け。〳〵。 シテ「花の袂も風吹かぬほどぞ。 地「雨にも誘はれ。 シテ「露にもしをれ。 地「契り少なき花衣。墨染桜こずゑに残る。霞も雲も明けゆく空に。〳〵。松風ばかりや音すらん。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著