関寺小町
世阿弥作 ワキ 関寺の住僧 ワキヅレ 同僧 シテ 小野小町 子方 寺の稚児 地は 近江 季は 七月 ワキ次第「待ち得て今ぞ秋に逢ふ。〳〵。星の祭を急がん。 詞「是は江州関寺の住僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。七夕の祭を取り行ひ候。又此山陰に老女の菴を結びて候ふが。歌道を極めたる由申し候ふ程に。幼き人々を伴なひ申し。彼老女の物語をも承らばやと存じ候。 一同サシ「颯々たる涼風と衰鬢と。一時に来る初秋の。七日の夕に早なりぬ。 ワキ「今日七夕の手向とて。糸竹呂律の色々に。 ツレ「ことを尽して。 ワキ「敷島の。 歌「道を願ひの糸はへて。〳〵。織るや錦のはた薄。花をも添へて秋草の。露の玉琴かき鳴らす。松風までも折からの。手向に叶ふ夕かな。〳〵。 シテサシ「朝に一鉢を得ざれども求むるに能はず。草衣夕の肌を隠さゞれどもおぎぬふに便あり。花は雨の過ぐるによつて紅正に老いたり。柳は風に欺かれて緑漸く垂れり。人更に若き事なし。終には老いの鶯の。百囀の春は来れども。昔に帰る秋はなし。あら来し方恋しや。〳〵。 ワキ詞「如何に老女に申すべき事の候。是は関寺に住む者にて候。此寺の児達歌を御稽古にて候ふが。老女の御事を聞き給ひ。歌をよむべき様をも問ひ申し。又御物語をも承らん為めに。児達も是まで御出でにて候。 シテ詞「是は思ひも寄らぬ事を承り候ふ物かな。埋木の人知れぬ事となり。花薄穂に出だすべきにしもあらず。心を種として言葉の花色香に染まば。などか其風を得ざらん。優しくも幼き人の御心に好き給ふ物かな。 ワキ「先々普く人の翫び候ふは。難波津の歌を以て。手習ふ人の始めにもすべき由聞え候ふよなふ。 シテ「夫れ歌は神代より始まれども。文字の数定まらずして。事の心分き難かりけらし。今人の代となりて。めでたかりし世継をよみ治めし詠歌なればとて。難波津の歌を翫び候。 ワキ「又浅香山の歌は。王の御心を和らげし故に。是れ又めでたき詠歌よなふ。 シテ「実によく心得給ひたり。此二歌を父母として。 ワキ「手習ふ人の始めとなりて。 シテ「高き賤しき人をも分かず。 ワキ「都鄙遠国の鄙人や。 シテ「我等如きの庶人までも。 ワキ「好ける心に。 シテ「近江の海の。 地「さゝ波や。浜の真砂は尽くるとも。〳〵。よむ言の葉はよも尽きじ。青柳の糸絶えず。松の葉の散り失せぬ。種は心と思し召せ。たとひ時移り事去るとも。此歌の文字あらば。鳥の跡も尽きせじや。鳥の跡も尽きまじ。 ワキ詞「有難う候。古き歌人の言葉多しといへども。女の歌は稀なるに。老女の御事例少なうこそ候へ。我背子が来べき宵なりさゝがにの。蜘蛛の振舞かねてしるしも。是は女の歌候ふか。 シテ「是は古へ衣通姫の御歌なり。衣通姫とは允恭天皇の后にてまします。形の如く我等も其流をこそ学び候へ。 ワキ「さては衣通姫の流を学び給ふかや。近年聞えたる小野の小町こそ。衣通姫の流とは承れ。わびぬれば身を浮草の根を絶えて。誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ。是は小町の歌候ふな。 シテ「是は大江の惟章が心変りせし程に。世の中物うかりしに。文屋の康秀が三河の守になりて下りし時。田舎にて心をも慰めよかしと。我を誘ひし程によみし歌なり。忘れて年を経し物を。聞けば涙の古事の。又思はるゝ悲しさよ。 ワキ「不思議やなわびぬればの歌は。我よみたりしと承る。又衣通姫の流と聞えつるも小町なり。実に年月を考ふるに。老女は百に及ぶといへば。たとひ小町の存ふるとも。いまだ此世に在るべきなれば。今は疑ふ所もなく。御身は小町の果ぞとよ。さのみな包み給ひそとよ。 シテ「いや小町とは恥かしや。色見えてとこそよみし物を。 地「移ろふ物は世の中の。人の心の花や見ゆる。恥かしやわびぬれば。身を浮草の根を絶えて。誘ふ水あらば今も。いなんとぞ思ふ恥かしや。 地クリ「実にや包めども。袖に溜らぬ白玉は。人を見ぬ目の涙の雨。古事のみを思草の。花しをれたる身の果まで。何白露の名残ならん。 シテサシ「思ひつゝ寐ればや人の見えつらんと。 地「よみしも今は身の上に。存へ来ぬる年月を。送り迎へて春秋の。露行き霜来つて草葉変じ。虫の音も枯れたり。 シテ「生命既に限りと為つて。 地「唯槿花一日の栄に同じ。 クセ「あるは無く。無きは数添ふ世の中に。あはれ何れの日まで歎かんと。詠ぜし事も我ながら。いつまで草の花散じ。葉落ちても残りけるは。露の命なりけるぞ。恋しの昔や。忍ばしの古への身やと。思ひし時だにも。また古事になり行く身の。せめて今は又。はじめの老ぞ恋しき。あはれ実に古へは。一夜泊りし宿までも。玳瑁を飾り。垣に金花を懸け。戸には水精を連ねつゝ。鸞輿属車の玉衣の。色を飾りて敷妙の。枕つく。妻屋の内にしては。花の錦の茵の起き臥しなりし身なれども。今は埴生の。こや玉を敷きし床ならん。 シテ「関寺の鐘の声。 地「諸行無常と聞くなれども。老耳には益もなし。逢坂の山風の。是生滅法の理をも得ばこそ。飛花落葉のをり〳〵は。好ける道とて草の戸に。硯を馴らしつゝ。筆を染めて藻塩草。書くや言の葉の枯々に。あはれなるやうにて強からず。強からぬは女の歌なれば。いとゞしく老の身の。弱り行く果ぞ悲しき。 子詞「如何に申し候。七夕の祭おそなはり候。老女をも伴なひ御申し候へ。 ワキ「如何に老女。七夕の祭を御出で有つて御覧候へ。 シテ「いや〳〵老女の事は憚りにて候ふ程に。思ひも寄らず候。 ワキ「何の苦しう候ふべき。唯々御出で候へとよ。 地「七夕の。織る糸竹の手向草。幾年経てかゝげろふの。小野の小町の百年に。及ぶや天つ星合の。雲の上人に馴れ〳〵し。袖も今は麻衣の。浅ましや痛はしや。目もあてられぬ有様。とても今宵は七夕の。〳〵。手向の数も色々の。或は糸竹に。懸けて廻らす盃の。雪を受けたる。童舞の袖ぞ面白き。星祭るなり呉竹の。(子方三段の舞) シテ「世々を経て住む行末の。 地「いく久しさぞ万歳楽。 シテ詞「あら面白の唯今の舞の袖やな。むかし豊の明の五節の舞姫の袖をこそ五度返しゝが。是は又七夕の手向の袖ならば。七返しにてや有るべき。狂人走れば不狂人も走るとかや。今の童舞の袖に引かれて。狂人こそ走り候へ。百年は。(序の舞) シテワカ「百年は。花に宿りし胡蝶の舞。 地「あはれなり〳〵。老木の花の枝。 シテ「さす袖も手忘れ。 地「もすそも足弱く。 シテ「たゞよふ波の。 地「立ち舞ふ袂はひるがへせども。昔に返す袖はあらばこそ。 シテ「あら恋しの古へやな。 地「さる程に初秋の短夜。はや明方の関寺の鐘。 シテ「鳥もしきりに。 地「告げ渡る東雲の。あさまにもならば。 シテ「羽束師の杜の。 地「羽束師の。杜の木隠れもよもあらじ。暇申して帰るとて。杖にすがりてよろ〳〵と。本の藁屋に帰りけり。百年の姥と聞えしは。小町が果の名なりけり。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第九輯』大和田建樹 著