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立田物狂

ワキ 山本家次
ツレ 同行者
シテ 狂女小蝶

地は 大和
季は 九月

ワキ次第「秋の名残も今しばし。〳〵。立田の山に急がん。
詞「是は当国軽の里に。山本の何某にて候。頃も早秋の末になり候へば。山々の紅葉今を盛の由申し候ふ程に。同じ心の友を誘ひ。唯今立田の山へと急ぎ候。
道行「秋も早。姿の池の雁の声。〳〵。聞くにかひなき耳なしの。山をも跡に見残して。行けば程なく立田川。宮居に早く着きにけり。〳〵。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。立田川に着きて候。あれ御覧候へ紅葉の最中にて候。げにや二月の花よりも紅なりと。眺めし人の心も思ひやられて候。猶山深く分け入り候ふべし。
ツレ男「如何にも御供申し候ふべし。又唯今人の申し候ふは。都より女物狂の来て。此御社に参り宮巡りし。紅葉狩る人と打ち交り面白う狂ふと申し候。暫く是に御休み候ひて。彼者を御待ちあらうずるにて候。
ワキ「さらば是に待ち申さうずるにて候。
シテ一声「げにや数ならぬ。心の科になし果てゝ。知らせてこそは身をも恨みめ。よしなき人と誓ひつゝ。都を出でゝ遥々と。思ひ立田の御社に。歩みを運ぶ志を。あはれみ給へ神慮。
カヽル「遥なる岩のはざまに独り居て。人目忍ばで物思はゞや。恋よ恋。我中空になすな恋。
地「恋しき人は大和路や。立田の山の薄紅葉。
シテサシ「思ひきや身を徒になし果てゝ。都の空を遠ざかり。知らぬ大和の山々も。つれなき人は此国に。住むとは聞けど行方知らで。又帰り来ん程時も。早杉立てる草の庵に。明かし暮らしていつとなく。乱薄の花心。かゝる姿となりたるなり。
下歌「祈る誠の通ひなば。などかは巡り逢はざらん。
上歌「此神の。誓ひを四方に立田山。〳〵。紅葉の錦折からの。手向を松の風までも。心の塵を払ひつゝ。思ふ願の末遂げば。恋しき人に逢はざらん。〳〵。
ワキ詞「や。今仰せ候ふ物狂と覚しく候。社に参り何やらんそゞろ事を申し候。言葉を掛けて狂はせばやと思ひ候。
ツレ「急いで御狂はせ候へ。
ワキ「やあ如何に狂女。そも神に何事を祈れば。身をかこち世を恨むる風情心得がたう候。
シテ「是は仰とも覚えぬ物かな。戯れにいふ言の葉も思ひより出で。戯れに為すわざも謀より起るとかや。ましてや我等は此御神に。深き願ひのある物を。おろかに問はせ給ふなよ。
ワキ「げに〳〵聞けば理りなり。神慮に逢はんためならば。折からかつ散る村紅葉と。共に狂ひて舞ひ給へ。
シテ「思ひの外なる人々や。たま〳〵心のすぐなるを。紅葉と共に舞ひ遊べとや。情なき御言葉なれども。神慮に逢はんと承れば。いざや狂うて舞ひ遊ばん。
ワキ「さらば拍子を取り囃し。共にすゞしめ申さんと。へりぬり直垂取り出だし。之を着て疾う〳〵御舞ひ候へ。
シテ「去るにても昔恋しき舞の袖。しをれながらも立ち出でゝ。既に拍子をすゝめけり。
一声「神垣は久しくなりぬ宮柱。太しく立てゝ世を守り。誓ひの色ももみぢ葉の。深き心の色見えて。うつろふ人に今一たび。逢はせてたばせ給へとよ。
地「来し方に。(舞)
地「猶行末の思はるゝかな。思はるゝかな。〳〵。
シテ「もとより我は浮れ女の。浮れ〳〵て知らぬ国まで。迷ひの雲のとまり何くぞ。
地「何くにもあれ。心のとまる方は住家よ。
シテ「住家は玉を敷くともよしや。葎が宿に二人かも寝ん。
地「などさらば二人住まで。ひとり離れ狂ふらん。
シテ「理り知らぬ方々よ。末とげもせぬ仇夫に。そのかね言は有りながら。別れてよりは三年よ。
地「げに理りなりさもあらば。誠を致し舞ひ給へ。
シテ「今は早。立ち舞ふ袖の手もたゆし。
地「などや秋の扇。打ち捨てゝよそにのみ。高間の山の峰の雲。晴れぬ思ひを如何にせん。よしや我夫の。帰りて住まば此神に。七日登りしかひならん。〳〵。
ワキ詞「如何に申し候。
ツレ「何事にて候ふぞ。
ワキ「あの物狂をよく〳〵見候へば。三年以前に在京の折節。かりそめながら相馴れし女にて候。名乗りて悦ばせばやと思ひ候。
ツレ「近頃めでたう候。又人の申し候ふは。かの人は此立田山の眺めを曲舞に作つて御謡ひ候ふよし承り候。御名乗り候ひて後は所望なりがたく候。先づ一曲承り度く候。
ワキ「是は仰せにて候へども。彼者の後に怨みんも如何にて候ふ程に。名乗り候ひて以後に謡はせ候ふべし。
ツレ「左様にて候はゞはや〳〵御名乗り候へ。
ワキ「如何に小蝶の渡り候ふか。
シテ「あら不思議や。小蝶と御尋ね候ふは誰にて渡り候ふぞ。
ワキ「我こそ山本の何がし家次よ見忘れ給ふか。此所まで遥々の心ざし神妙に候。
シテ「情なや遥々尋ね参りたるに。などしも疾くは名乗り給はぬ。君がり来べき年月を。今や〳〵と待ちわびて。かゝる姿となりたるなり。
ワキ詞「げに仰尤にて候。疾く迎に参りたくは候ひつれども。此国の在々代官の身にて候へば。思ふにかひなく年月を送りて候。追付在所へ同道申し候ふべし。又是なる人の所望にて候。誠やらん面白き曲舞を御謡ひ候ふよし申され候。かゝる折にて候ふ程に。一曲御かなで候へ。
シテ「先に狂ひ候ふだに今更恥かしく候。中々思ひも寄らず候。
ワキ「何の苦しう候ふべき。平に御舞ひ候へ。
クリ地「それ神の昔を尋ぬるに。陰陽の二神天の浮橋の上にして。小夜の手枕結び定めし。其代まなび今までも。契り絶えせぬ道とかや。
シテサシ「中にも此御神は。紅色に愛で給ふより。
地「紅葉を御神木と崇め。殊には男女の中を守り給ふ。
シテ「然れば此山の。四方の眺めの色々に。
地「移り行くなる四つの時。空の名残ぞ惜しまるゝ。
クセ「春霞。立田の山の朝もよい。且つ咲き初むる初花の。花心ある人群れて。あるは木の本に草を敷き。樽をたゝへ歌を詠じ。又文作る方もあり。春に心を痛む間に。早くも来ぬる夏衣。ひとへに頼む神なびの。山時鳥鳴き〳〵て。何くに妻を求むらん。我も恋しき人を今日。三室の山の薄紅葉。青かりし古への。憂き身の涙露時雨。打ち交り散りかゝる。木の葉の色ぞ妙なる。
シテ「さて又冬の始めには。
地「川の面も白妙に。氷の内の唐錦。紅葉重の薄物を。裁ち縫はゞ弱からじ。渡らば中絶えん。よし絶ゆるとも我心。正木の葛掛巻も。畏き神の恵みにて。再び逢ふぞ嬉しき。いざさらば諸共に。宮廻り始めて。神をすゞしめ仰がん。
ロンギ地「めぐる歩みも重なりて。日もあかねさす八塩山。山里ながらも。我住む方に伴はん。
シテ「伴はれゆく道のべの。枝折にもなれ村紅葉。
地「薄尾花の乱れあひ。招くは我に留まれとや。
シテ「何の留まらん一足も。
地「急ぐ心は軽の里。早こなたへと夕月の。さし入る門も豊にて。共に栄ふる嬉しさよ。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著

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