玉井
観世小次郎作 前 ワキ 彦火々出見尊 シテ 豊玉姫 ツレ 玉依姫 後 ツレ二人 天女 シテ 綿津見の宮主 地は 龍宮 季は 雑 ワキサシ「それ天地開け始まりしより。天神七代地神四代に至り。火々出見尊とは我事なり。 詞「さても兄火闌降命の釣針を。かりそめながら海辺に釣を垂れしに。彼釣針を魚に取られぬ。此由を兄命に申せども。唯もとの針を返せと宣ふ間。剣をくづし針に作りて返すといへども。猶もとの鉤をはたる。さらば海中に入り。彼釣針を尋ねんと思ひ立ちて候。わたづみのそことも知らぬ塩土男の。翁の教へに従ひて。無目籠の猛き心。 歌「直なる道を行く如く。〳〵。波路遥かに隔て来て。こゝぞ名におふわたづみの。都と知れば水もなく。広き真砂に着きにけり。〳〵。 詞「さても我塩土男の翁が教へに従ひ。わたづみの都に入りぬ。これに瑠璃の瓦を敷ける衡門あり。門前に玉の井あり。此井の有様銀色かゝやき世の常ならず。又ゆつの桂の木あり。木の下に立ち寄り。暫く事のよしをも窺はゞやと思ひ候。 シテ、ツレ一声「はかりなき。齢を延ぶる明暮の。長き月日の光りかな。 ツレ「いとなむ業も手ずさみに。 二人「結ぶも清き水ならん。 シテサシ「濁りなき心の水の泉まで。老いせぬ齢を汲みて知る。 二人「薬の水の故なれや。老いせぬ門に出で入るや。月日曇らぬ久堅の。天にもますや此国の。行末遠き住居かな。 下歌「くり返す。玉の釣瓶の掛縄の。 上歌「長き命を汲みて知る。〳〵。心の底も曇りなき。月の桂の光り添ふ。枝を連ねて諸共に。朝夕なるゝ玉の井の。深き契は頼もしや。〳〵。 ワキ詞「我玉の井の辺にたゝずむ処に。其様けたかき女性二人来り。玉の釣瓶を持ち水を汲む気色見えたり。言葉をかけんも如何なれば。是なる桂の木陰に立ちより。身を隠しつゝたゝずみたり。 シテ詞「人ありとだに白露の。玉の釣瓶を沈めんと。玉の井に立ち寄り底を見れば。桂の木陰に人見えたり。是は如何なる人やらん。 ワキ「忍ぶ姿も顕はれて。あさまになりぬさりながら。なべてならざる御姿。如何なる人にてましますぞ。 シテ「あら恥かしや我姿の。見えける事も我ながら。忘るゝ程の御気色。形も殊にみやびやかなり。唯人ならず見奉る。御名を名乗りおはしませ。 ワキ「今は何をか包むべき。我は天孫地神四代。火々出見尊とは我事なり。 ツレ「あら有難や天の御神の。御孫の尊を目のあたり。見奉るぞ不思議なる。 シテ詞「いやさればこそ始より。天孫の光り隠れなし。さて是までの臨幸は。そも何事の故やらん。 ワキ「実に御不審は御理。我釣針を魚に取られ。遥々是まで尋ね来る。こゝをば何処と申すやらん。委しく語り給ふべし。 シテ詞「知ろしめさぬは御理。是は龍宮わたづみの宮。 ワキ「かく言の葉をかはし給ふ。二人の御名は。 シテ「豊玉姫。 ツレ「我は妹の玉依姫。 地「互に連枝の名乗りして。つゝましながら御神の。みやびやかなるに。早打ち解けて木綿四手の。神にぞ靡く大麻の。引く手あまたの心かな。〳〵。 シテ詞「如何に申し上げ候。うちつけなる御事なれども。やがて父母に逢はせ奉り。彼釣針をも尋ぬべし御心安く思し召され候へ。 ワキ詞「さらばやがて伴なひ申し。宮中へ参り候ふべし。 地クリ「かたじけなくも天の御神の御孫。わたづみの都に至り給ふ事。有難かりける御影かな。 シテサシ「然れば高垣姫垣調ほり。 地「高殿屋照りかゝやき。雲の八重畳を敷き。尊を請じ入れ奉り。 シテ「父母の神いつきかしづき。 地「臨幸の意趣を語り給ふ。 クセ「我兄の釣針を。かりそめながら波間行く。魚に取られて無き由を。歎き給へど其針に。あらずは取らじと兎に角に。せうとを痛めさま〴〵に。猛き心の如何ならんと。語り給へば父の神。御心安く思し召せ。まづ釣針を尋ねつゝ。御国に帰し申すべし。 シテ「猶兄の怒りあらば。 地「潮満潮干の二つの玉を。尊に奉りなば御心に。任せて国も久堅の。天より降る御神の。外祖となりて豊姫も。たゞならぬ姿有明の。月日程なく。三年を送り給へり。 ワキ詞「かくて三年になりぬれば。我国に帰り上るべし。海路の案内如何ならん。 シテ詞「御心安く思し召せ。綿津見の宮主伴なひて。海中の乗物さま〴〵あり。 地「大鰐に乗じはやてを吹かせ。陸地に送りつけ申さん。其程は待たせおはしませ。(中入) 天女二人「光り散る。潮満玉のおのづから。曇らぬ御影仰ぐなり。 地「各玉を捧げつゝ。〳〵。豊姫玉依二人の姫宮。金銀碗裏に玉を供へ。尊に捧げ奉り。彼釣針を待ち給ふ。綿津見の宮主持参せよ。 後ジテ「まうとの君の命に随ひ。綿津見の宮主釣針を尋ねて。天孫の御前に奉る。 地「潮満潮干二つの玉を。〳〵。釣針に取り添へ捧げ申し。舞楽を奏し豊姫玉依。袖を返して舞ひ給ふ。(天女二人の舞) 地「いづれも妙なる舞の袖。〳〵。玉のかんざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。雪を廻らす袂かな。 シテ「わたづみの宮主。〳〵。 地「姿は老龍の雲に蟠り。鹿脊杖にすがり。左右に返す袂も花やかに。足踏はとう〳〵と。拍子をそろへて時移れば。尊は御座を立ち給ひ。帰り給へば袂にすがり。わたづみの乗物を奉らんと。五丈の鰐に乗せ奉り。二人の姫に玉を持たせ。龍王立ち来る波を払ひ。潮を蹴立て。遥かに送りつけ奉り。遥かに送りつけ奉りて。又龍宮にぞ帰りける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著