鶴岡
ワキ 工藤祐経 シテ 静 地は 相模 季は 夏 ワキ詞「抑是は鎌倉殿の御代官工藤一郎祐経にて候。さても頼朝義経御中不和により。義経都に御座なく。又御ありかとても聞えず候。こゝに静と申す白拍子の候ふが。去年の冬吉野山まで御供申したる由聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ静を召し下し。義経の御行末を尋ね申せとの御諚にて候ふ間。北条の四郎時政方々へ飛脚を以て尋ね。静を召し下し。かたく尋ね申す処に。吉野山までは御供申して候へども。其まゝ捨てられ参らせ。御ゆくへとては存ぜざる由。色々の誓を以て申し候ふ間。さらば都へ御かへしあるべきよし仰せ出だされて候。又静の舞の事。世にかくれなく候ふ間。鶴が岡にて法楽の事を仰せ出だされて候ふ程に。則ち申し付けて候。いかに静の御座候ふか。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「御申しの通り聞し召しひらかれ候ふ事。先づ以つてめでたき御事にて候。 シテ「唯是れ当社の御はからひと有難うこそ候へ。 ワキ「今日は卯月八日。当宮の御縁日にて候ふ間。法楽の舞そと御舞ひ候へ。 シテ「以前も申す如く。今此身になり候ひては。中々思ひもよらず候。 ワキ「御ことわり尤にて候さりながら。あかぬは君の仰せなり。殊には義経の御ゆくへ。又は御身の現世の為め。急いで催し給ふべし。 シテ「時に従ふ世のならひと。心を心の師と頼み。唯床しきは我君の御有様にて候。中々今は此身にて。否み申さば悪しかりなん。 地「これと申すも義経の。世にましまさばかゝらじと。世を恨み身をかこち。思ひ沈むぞあはれなる。 ワキ「力及ばず静御前は。舞の装束引きつくろひ。 シテ「涙と共に出でければ。 ワキ「君を初め奉り。 シテ「大名高家を先として。 ワキ「神官宮人其外の。 シテ「貴賤老若袖をつらね。 ワキ「さゝめきあひて。 シテ「静の舞。 地「今や〳〵と待ちにけり。 シテ「其時静立ち上り。心ならずも舞の袖。 地「かへす〴〵も恨めしや。 クリシテ「抑当社と申し奉りしは。 地「当初来現の御勧請。初めは茅の仮葺なりしを。この鶴が岡に移し奉る。 シテサシ「七宝をちりばめ色々の。 地「上下の廻廊軒を連ね。外には御本地釈迦如来の。霊鷲山浄土もかくやらんと。御池の蓮汀の松。七重宝樹に異ならず。 クセ「殊更今日は灌仏の。会を結ばんと様々に。さかりなる卯の花の。雪の下道かき分けて。貴賤群集の装ひも。裾を連ね袖をつぎ。われは五障の深き雲。かゝる砌に逢ふ事も。歎きの中の喜びと。おもふにつけて我頼む。義経の御ゆくへ。いかゞあらんとゝもすれば。心に浮ぶ涙かな。垂跡たがはせ給はずは。本地釈迦牟尼其外の。頼みをかけし神仏も。静が袂にうつりて。現当をまもりおはしませと。祈念も時うつりて。舞の手を忘れ井の。底の心のあはれにし。信力を頼むなり。信力を頼むばかりなり。 シテ「直道の曇りなき。治まる御代の鎌倉や。 地「治まる御代の鎌倉山。〳〵。緑毛の亀が谷。丹頂の鶴が岡。 シテ「松の葉の散り失せず。 地「空行く月の。 シテ「曇りあらじと殊には君の。 地「万歳を祝ひ。 シテ「内には義経の。 地「在庄を祈り。又入綾の袖をかへせば。御簾のうちもさゞめき渡り。万民の感ずる声々は。由井の汀の浪に響き。是までなりやと。罷り申しを静になして。〳〵。又都へこそ帰りけれ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著