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護法 一名 名取嫗

世阿弥作

ワキ 山伏
ヲカシ 里人
シテ 名取嫗
ツレ 里女
ツレ 護法善神

地は 陸奥
季は 雑

ワキ詞「是は本山三熊野の客僧にて候。我此度松島平泉への志有るにより。御暇乞のために本宮証誠殿に通夜申して候へば。あらたに霊夢を蒙りて候。汝奥へ下らば言伝すべし。陸奥名取の里に。名取の老女とて年久しき巫あり。彼者若くさかんなりし時は。年詣せしかども。今は年たけ行歩も叶はねば参る事もなし。ゆかしくこそ思へ。是なる物を届けよと具に承り。夢さめて枕を見れば梛の葉に虫くひの歌あり。是を持ちて只今陸奥へと急ぎ候。
道行「雲水の。行方も遠き東路に。〳〵。今日思ひ立つ旅衣。袖の篠懸露結ぶ。草の枕の夜な〳〵に。仮寐の夢を陸奥の。名取の里に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。陸奥名取の里に着きて候。此処にて名取の老女の在所を尋ね申さうずるにて候。在所の人の渡り候ふか。
ヲカシ「何事を御尋ね候ふぞ。
ワキ「此処に名取の老女と申す人の御座候ふか。
ヲカシ「さん候御在所はあれに見えたる処にて候。是に三熊野を勧請申されて。毎日御参り候ふが。今日は未だ御参りなく候。只今是へ御参り候ふべし暫く御待ち候ひて。是にて逢ひ申され候へ。
ワキ「あら嬉しやさらば是に待ち申し候ふべし。
シテ、ツレ一声「何くにも。崇めば神は宿木の。御影を頼む心かな。
サシ「是は陸奥に名取の老女とて。年久しき巫にて候。
二人「我幼かりし時よりも。他生の縁もや積りけん。神に頼みを掛巻も。忝しと神職に。仕ふる心浅からず。身はさくさめの年詣。遠きも近き頼みかな。
シテ「されども次第に年老いて。遠き歩みも叶はねば。
二人「かの三熊野を勧請申し。こゝをさながら紀の国の。
下歌「牟婁の郡や音無の。変はらぬ誓ひぞと。頼む心ぞ誠なる。
上歌「こゝは名を得て陸奥の。〳〵。名取の川の川上を。音無川と名づけつゝ。梛の葉守の神こゝに。証誠殿と崇めつゝ。年詣で日詣でに。歩みを運ぶ乙女子が。年も旧りぬる宮柱。立居隙なき宮仕かな。〳〵。
ワキ詞「如何に是なる人に尋ぬべき事の候。
ツレ「何事にて候ふぞ。
ワキ「承り及びたる名取の老女と申し候ふは此御事にて御座候ふか。
ツレ「さん候是こそ名取の老女にて御座候へ。何の為めに御尋ね御座候ふぞ。
ワキ「是は三熊野より出でたる客僧にて候ふが。老女の御目に懸り候ひて申し度き事の候。
ツレ「暫く御待ち候へ。其由を申さうずるにて候。如何に老女へ申し候。是に三熊野より御出で候ふ山伏の御座候ふが。御目に懸り度き由を仰せられ候。
シテ「あら思ひ寄らずや此方へと申し候へ。
ツレ「此方へ御出で候へ。
シテ「三熊野よりの客僧は何くに御入り候ふぞ。
ワキ「是に候。何とやらん粗忽なるやうに思召し候はんずれども。夢想のやうを申さん為めにて候。さても我此度松島平泉への志あるにより。御暇乞のために本宮証誠殿に通夜申して候へば。新に御霊夢を蒙りて候。汝奥へ下らば言伝すべし。陸奥名取の里にて。名取の老女とて年久しき巫あり。彼若くさかんなりし時は年詣でせしかども。今は年老い行歩も叶はねば参る事もなし。ゆかしくこそ思へ。是なる物をたしかに届けよと新に承りて夢覚め枕を見れば。梛の葉に虫喰の御歌あり。有難く思ひ是まで遥々持ちて参りて候。是々御覧候へ。
シテ「有難しとも中々に。えぞ岩代の結松。露の命のながらへて。かゝる奇特を拝む事の有難さよ。
詞「老眼にて虫喰の文字さだかならず。それにて高らかに遊ばされ候へ。
ワキ「さらば読みて聞かせ候ふべし。何々虫喰の御歌は。道遠し年もやう〳〵老いにけり。思ひおこせよ我も忘れじ。
シテ「何なふ道遠し。年もやう〳〵老いにけり。思ひおこせよ我も忘れじ。
ワキ「げに〳〵御感涙尤にて候去りながら。二世の願望あらはれて羨ましうこそ候へ。
シテ「仰せの如くかほどまで。受けられ申す神慮なれば。崇めても猶有難し。
ワキ「二世の願ひや三つの御山を。移して祝ふ神なれば。
シテ「こゝも熊野の岩田川。深き心の奥までも。
ワキ「受けられ申す神慮とて。思ひおこせよ。
シテ「我も忘れじとは。
地「有難し〳〵。げにや末世と言ひながら。神の誓ひは疑ひも。梛の葉に。見し神歌は有難や。
シテ「如何に客僧へ申し候。此処に三熊野の勧請申して候ふ御参り候へ。
ワキ「やがて御供申し候ふべし。
シテ「御覧候へ此御山の有様。何となく本宮に似参らせ候ふ程に。本宮証誠殿と崇め申し候。又あれに見えたるは飛鳥の里。新宮と祝ひ参らせ候。又此方に滝の落ち候ふをば。
カヽル「名にしおふ飛龍権現のおはします。那智の御山とこそ崇め申し候へ。
クリ地「それ勧請の神所。国家に於て其数ありといへども。取り分き当社の御来歴。りよしんを以て専とせり。
サシ「もとは摩伽陀国のあるじとして。御代を治め国家を守り。
地「大悲の海深うして。万民無縁の御影を受けて。日月の波静なり。
シテ「然りとは申せども。猶も和光の御結縁。
地「あまねき雨の足引の。大和島根に移りまして。此秋津神となり給ふ。
クセ「処は紀の国や。牟婁の郡に宮居して。行人征馬の。歩みを運ぶ志。直なる道となりしより。四海波静にて。八天塵をさまれり。中にも本宮や。証誠殿と申すは。本地弥陀にてましませば。十方界に示現して。光り普き御誓ひ。頼むべし頼むべしや。程も遥けき陸奥の。東の国の奥よりも。南の果に歩みして。終には西方の。台になどか座せざらん。
シテ「大悲擁護の霞は。
地「熊野山の嶺に棚引き。霊験無双の神明は。音無川の川風の。声は万歳が峰の松の。千とせの坂既に。六十に至る陸奥の。名取の老女かくばかり。受けられ申す神心。げに信あれば徳ありや。有難し有難き。告ぞめでたかりける。
ワキ「老女へ申し候。かゝるめでたき神慮にて御座候ふに。臨時の幣帛を捧げて神慮をすゞしめ御申し候へ。
シテ「げに〳〵臨時の幣帛を捧げて。神慮をすゞしめ参らせうずるにて候。
カヽル「いで〳〵臨時の幣帛を捧げ。神慮をすゞしめ申さんと。
ワキ「天の羽袖や白木綿花。
シテ「神前に捧げ諸共に。
二人「謹上再拝。仰ぎ願はくは棹鹿の。八つの御耳を振り立て。利生の御翅を並べ。空海の空に翔りては。一天泰平国土安全。諸人快楽福寿円満の。恵みを普く施し給へや。南無三所権現。護法善神。
シテ「不思議やな老女が捧ぐる幣帛の上に。化したる人の虚空に翔り。老女が頭を撫で給ふは。如何なる人にてましますぞ。
護法「事も愚や権現の御使。護法善神よ。
シテ「有難や。まのあたりなる御相好。
護法「神は宜禰がならひを受け。
地「人は神の徳を知るべしとて。参りの道には。
護法「むかひ護法の先達となり。
地「さて又下向の道に出づれば。
護法「国々までも送り護法。
地「災難を遁し悪魔を払ふ。送り迎ひの護法善神なり。それ我国は小国なりと申せども。大神光りをさしおろし給ふ。其矛のしたゞりに。大日の文字。あらはれ給ひしより。大日の本国と号して。胎金両部の密教たり。
護法「然ればもとよりも。
地「然ればもとよりも。日本第一大霊験。熊野三所権現と現はれて。衆生済度の。方便を貯へて。発心の門を出で。岩田川の波を分けて。煩悩の垢をすゝげば。水のまに〳〵道をつけて。危き崖路の苔を走れば。下にも行くや足早舟の。波の打櫂水馴棹。下ればさし上れば引く。綱手も三葉柏に。かく神託の道は遠し。年は旧りぬる名取の老女が。子孫に至るまで。二世の願望三世の所望。皆悉く願成就の。神託あらたに告げ知らせて。護法は上らせ給ひけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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