羽衣
世阿弥作 ワキ 漁夫白龍 ツレワキ 同行漁夫 シテ 天人 地は 駿河 季は 春 ワキ、ツレ一声「風早の。三穂の浦回をこぐ舟の。浦人さわぐ浪路かな。 ワキサシ「是は三保の松原に。白龍と申す漁夫にて候。 ワキツレ「万里の好山に雲忽におこり。一楼の明月に雨はじめて晴れり。げにのどかなる時しもや。春のけしき松原の。浪立ちつゞく朝霞。月ものこりの天の原。及なき身のながめにも。心そらなるけしきかな。 下歌「わすれめや。山路をわけて清見がた。はるかに三保の松原に。たちつれいざやかよはん。 上歌「風向ふ。雲の浮浪たつと見て。〳〵。釣せで人やかへるらん。待てしばし春ならば。吹くものどけき朝風の。松は常盤の声ぞかし。浪は音なき朝なぎに。釣人おほき小舟かな。〳〵。 ワキ詞「われ三保の松原にあがり。浦のけしきをながむる所に。虚空に花ふり音楽きこえ。霊香四方に薫ず。是たゞことゝ思はぬ所に。これなる松にうつくしき衣かゝれり。よりてみれば色香たへにして常の衣にあらず。いかさま取りてかへり古き人にも見せ。家の宝となさばやと存じ候。 シテ詞「なふその衣はこなたのにて候。何しにめされ候ふぞ。 ワキ「是はひろひたる衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。 シテ「それは天人の羽衣とて。たやすく人間にあたふべき物にあらず。本のごとくに置き給へ。 ワキ「そも此衣の御ぬしとは。さては天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特にとゞめおき。国の宝となすべきなり。衣をかへす事あるまじ。 シテ「かなしやな羽衣なくては飛行の道も絶え。天上にかへらんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。 ワキ「此御詞を聞くよりも。いよ〳〵白龍力を得。本より此身は心なき。天の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。 シテ「今はさながら天人も。羽根なき鳥の如くにて。あがらんとすれば衣なし。 ワキ「地にまた住めば下界なり。 シテ「とやあらんかくやあらんと悲しめど。 ワキ「白龍衣をかへさねば。 シテ「力及ばず。 ワキ「せんかたも。 地「涙の露の玉鬘。かざしの花もしを〳〵と。天人の五衰も。目のまへに見えてあさましや。 シテ「天の原ふりさけみれば霞たつ。雲路まどひてゆくへ知らずも。 下歌地「住み馴れし空にいつしかゆく雲の。羨ましきけしきかな。 上歌「迦陵頻迦のなれ〳〵し。〳〵。声今さらにわづかなる。雁金のかへりゆく。天路を聞けばなつかしや。千鳥鷗の沖つ浪。ゆくか帰るか春風の。空に吹くまでなつかしや。〳〵。 ワキ詞「いかに申し候。御姿を見たてまつれば。あまりに御痛はしく候ふ程に。衣をかへし申さうずるにて候。 シテ「あらうれしやこなたへ給はり候へ。 ワキ「しばらく。うけたまはり及びたる天人の舞楽。たゞ今こゝにて奏し給はゞ。衣をかへし申すべし。 シテ「うれしやさては天上にかへらん事をえたり。此よろこびにとてもさらば。人間の御遊のかたみの舞。月宮をめぐらす舞曲あり。たゞ今こゝにて奏しつゝ。世のうき人に伝ふべしさりながら。衣なくては叶ふまじ。さりとては先かへし給へ。 ワキ「いや此衣をかへしなば。舞曲をなさで其まゝに。天にやあがり給ふべき。 シテ「いや疑ひは人間にあり。天に偽りなき物を。 ワキ「あら恥かしやさらばとて。羽衣を返しあたふれば。 シテ「少女は衣を着しつゝ。霓裳羽衣の曲をなし。 ワキ「天の羽衣風に和し。 シテ「雨に湿ふ花の袖。 ワキ「一曲をかなで。 シテ「舞ふとかや。 地次第「東遊の駿河舞。〳〵。此時や始めなるらん。 クリ「それ久堅の天といつぱ。二神出世のいにしへ。十方世界をさだめしに。空はかぎりもなければとて。久方のそらとは名づけたり。 シテサシ「しかるに月宮殿のありさま。玉斧の修理とこしなへにして。 地「白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。奉仕をさだめ役をなす。 シテ「我も数ある天乙女。 地「月の桂の身を分けて。仮に東の駿河舞。世に伝へたる曲とかや。 クセ「春霞。たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。げに花かづら。色めくは春のしるしかや。おもしろや天ならで。こゝも妙なり天津風。雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿しばし留まりて。此松原の。春のいろを三保が崎。月清見潟富士の雪。いづれや春のあけぼの。たぐひ浪も松風も。のどかなる浦のありさま。そのうへ天地は。何を隔てん玉垣の。内外の神の御末にて。月も曇らぬ日の本や。 シテ「君が代は。天の羽衣まれに来て。 地「撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙なり東歌。声そへてかず〳〵の。笙笛琴箜篌。孤雲の外に満ち〳〵て。落日の紅は。蘇命路の山をうつして。緑は浪に浮島が。払ふ嵐に花ふりて。げに雪をめぐらす。白雲の袖ぞ妙なる。 シテ「南無帰命月天子。本地大勢至。 地「東遊の舞の曲。(序の舞) シテワカ「あるひは。天つ御空の緑の衣。 地「又は春立つ霞の衣。 シテ「色香も妙なり乙女の裳。 地「左右左左右颯々の。花をかざしの天の羽袖。なびくもかへすも舞の袖。(破の舞) 地「東あそびのかず〳〵に。〳〵。その名も月の色人は。三五夜中の空に又。満願真如の影となり。御願円満国土成就。七宝充満の宝を降らし。国土に是をほどこし給ふ。さるほどに時うつゝて。天の羽衣浦風に。たなびきたなびく三保の松原。浮島が雲の。足高山や富士の高嶺。かすかになりて天つみそらの。霞にまぎれて失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著