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芭蕉

禅竹作


ワキ 山居の僧
シテ 女


ワキ 前に同じ。
シテ 芭蕉の精

地は 支那
季は 秋八月

ワキ詞「是は唐楚国の傍。小水と申す所に山居する僧にて候。さても我法華持経の身なれば。日夜朝暮彼御経を読み奉り候。殊更今は秋の半。月の夜すがら怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。此山中に我ならで。又住む者もなく候ふに。夜な〳〵読経の折節。菴室のあたりに人の音なひ聞え候。今夜も来りて候はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。
サシ「既に夕陽西にうつり。山峡の影冷ましくして。鳥の声幽かに物凄き。
歌「夕べの空もほの〴〵と。〳〵。月になり行く山陰の。寂寞とある柴の戸に。此御経を読誦する。〳〵。
シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。〳〵。あだにや風の破るらん。
サシ「風破窓を射て灯きえ易く。月疎屋を穿ちて夢なり難き。秋の夜すがら所から。物冷ましき山陰に。住むとも誰か白露の。旧り行く末ぞ哀れなる。
下歌「あはれ馴るゝも山賤の。友こそ岩木なりけれ。
上歌「見ぬ色の。深きや法の花心。〳〵。染めずはいかゞ徒らに。其唐衣の錦にも。衣の珠はよも掛けじ。草の袂も露涙。移るも過ぐる年月は。廻り廻れどうたかたの。哀れ昔の秋もなし。〳〵。
ワキ詞「さても我読誦の声怠らず。夢現とも分かざるに。女人の月に見え給ふは。如何なる人にてましますぞ。
シテ詞「是は此あたりに住む者なるが。さも逢ひ難き御法を得。花を捧げ礼をなし。結縁をなすばかりなり。とても姿を見え参らすれば。何をか今は憚りの。言の葉草の菴の内を。露の間なりと法の為めは。結縁に借させ給へとよ。
ワキ「実に〳〵法の結縁は。誠に妙なる御事なれどもさりながら。なべてならざる女人の御身に。いかで御宿を参らすべき。
シテ「其御心得はさる事なれども。よそ人ならず我もまた。住家はこゝぞ小水の。
ワキ「同じ流れを汲むとだに。知らぬ他生の縁による。
シテ「一樹の陰の。
ワキ「菴の内は。
地「惜しまじな。月も仮寐の露の宿。〳〵。軒も垣ほも古寺の。愁ひは崖寺のふるに破れ。魂は山行の深きに痛ましむ。月の影も冷ましや。誰かいひし蘭省の花の時。錦帳の下とは。廬山の雨の夜。草菴の内ぞ思はるゝ。
ワキ詞「余りに御志深ければ。御経読誦の程内へ御入り候へ。
シテ詞「さらば内へ参り候ふべし。あら有難や此御経を聴聞申せば。我等如きの女人。非情草木の類ひまでも頼もしうこそ候へ。
ワキ「実によく御聴聞候ふものかな。唯一念随喜の信心なれば。一切の非情草木の類ひまでも。何の疑ひの候ふべき。
シテ「さては殊更有難や。さて〳〵草木成仏の。謂を猶も示し給へ。
ワキ「薬草喩品顕はれて。草木国土有情非情も。皆是れ諸法実相の。
シテ「峰の嵐や。
ワキ「谷の水音。
二人「仏事をなすや寺井の底の。心も澄める折からに。
地「灯を。背けて向ふ月の下。〳〵。共に憐む深き夜の。心を知るも法の人の。教へのまゝなる心こそ。思ひの家ながら。火宅を出づる道なれや。されば柳は緑。花は紅と知る事も。唯其まゝの色香の。草木も成仏の国土ぞ。成仏の国土なるべし。
ロンギ地「不思議やさても愚かなる。女人と見るにかくばかり。法の理白糸の。解くばかりなる心かな。
シテ「中々に。何疑ひか有明の。末の闇路をはるけずは。今逢ひ難き法を得る。身とは如何が思はん。
地「実に逢ひ難き法に逢ひ。受け難き身の人界を。
シテ「受くる身ぞとやおぼすらん。
地「恥かしや帰るさの。道さやかにも照る月の。影はさながら庭の面の。雪の内の芭蕉の。いつはれる姿の。真を見えば如何ならんと。思へば鐘の声。諸行無常と為りにけり。〳〵。(中入)
ワキ詞「さては雪の中の芭蕉の。偽れる姿と聞えしは。疑ひもなき芭蕉の女と。現はれけるこそ不思議なれ。
歌「唯是れ法の奇特ぞと。〳〵。思へばいとゞ夜もすがら。月も妙なる法の場。風の芭蕉やつたふらん。〳〵。
後ジテ「あら物すごの庭の面やな。〳〵。有難や妙なる法の教へには。逢ふ事まれなる優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。御法の雨も豊かなる。露の恵みを受くる身の。人衣の姿御覧ぜよ。かばかりは。うつり来ぬれど花もなき。
地「芭蕉の露の旧りまさる。
シテ「庭のもせ。山影のみぞ。
ワキカヽル「寐られねば枕ともなき松が根の。現はれ出づる姿を見れば。有りつる女人の顔ばせなり。さもあれ御身は如何なる人ぞ。
シテ詞「いや人とは恥かしや。誠は我は非情の精。芭蕉の女と現はれたり。
ワキ「そもや芭蕉の女ぞとは。何の縁にかかゝる女体の。身をば受けさせ給ふらん。
シテ詞「其御不審は御あやまり。何か定めは荒金の。
ワキ「土も草木も天より下る。
シテ「雨露の恵みを受けながら。
ワキ「我とは知らぬ有情非情も。
シテ「おのづからなる姿となりて。
ワキ「さも愚かなる。
シテ「女とて。
地「さなきだに。あだなるに芭蕉の。女の衣は薄色の。花染ならぬに。袖のほころびも恥かしや。
地クリ「夫れ非情草木といつぱ。誠は無相真如の体。一塵法界の心地の上に。雨露霜雪の形を見す。
シテサシ「然るに一枝の花を捧げ。
地「御法の色を顕はすや。一花開けて四方の春。長閑けき空の日影を得て。楊梅桃李数々の。
シテ「色香に染める心まで。
地「諸法実相隔てもなし。
クセ「水に近き楼台は。先づ月を得るなり。陽に向へる花木は又。春に逢ふ事易きなる。其理も様々の。実に目の前に面白やな。春過ぎ夏たけ。秋来る風の音信は。庭の荻原先づそよぎ。そよかゝる秋と知らすなり。身は古寺の軒の草。忍ぶとすれどいにしへも。花は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。もろくも落つる露の身は。置き所なき虫の音の。蓬がもとの心の。秋とてもなどか変はらん。
シテ「よしや思へば定めなき。
地「世は芭蕉葉の夢の内に。牡鹿の鳴く音は聞きながら。驚きあへぬ人心。思ひいるさの山はあれど。唯月ひとり伴なひ。馴れぬる秋の風の音。起き臥し茂き小笹原。しのに物思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。
シテ「今宵は月も白妙の。
地「氷の衣霜の袴。(序の舞)
シテワカ「霜の縦。露のぬぎこそ弱からし。
地「草の袂も。
シテ「久堅の。
地「久堅の。天つ少女の羽衣なれや。
シテ「是も芭蕉の羽袖をかへし。
地「かへす袂も芭蕉の扇の。風茫々と。物すごき古寺の。庭の浅茅生女郎花刈萓。面影うつろふ露の間に。山おろし松の風。吹き払ひ〳〵。花も千草もちり〴〵に。花も千草もちり〴〵になれば。芭蕉は破れて残りけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著

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