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百万 古名 嵯峨物狂 又 嵯峨大念仏

観阿弥作

ワキ 吉野の人
シテ 百万
狂言 門前の者
子方 百万の子

地は 京都
季は 三月

ワキ次第「竹馬にいざや法の道。〳〵。誠の友を尋ねん。
詞「是は和州三芳野の者にて候。又是に渡り候ふ幼き人は。南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。此幼き人を連れ申し。念仏に参らばやと存じ候。
シテ詞「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候ふべし。南無阿弥陀仏。
地「南無阿弥陀仏。
シテ「南無阿弥陀仏。
地「南無阿弥陀仏。
シテ「みだ頼む。
地「人は雨夜の月なれや。雲晴れねども西へゆく。
シテ「あみだぶやなまうだと。
地「誰かは頼まざる。誰か頼まざるべき。
シテ「是かや春の物狂。
地「みだれ心か恋草の。
シテ「力車に七くるま。
地「積むとも尽きじ。
シテ「重くとも。輓けやえいさらえいさと。
地「一度に頼む弥陀の力。頼めやたのめ南無阿弥陀仏。
地「げにや世々ごとの。親子の道にまとはりて。〳〵。猶子の闇を晴れやらぬ。
シテ「朧月の薄曇り。
地「わづかに住める世に。尚三界の首枷かや。牛の車のとことはに。何くをさして引かるらん。えいさらえいさ。
シテ「輓けや輓けや此車。
地「物見なり物見なり。
シテ「げに百万が姿は。
地「本よりながき黒髪を。
シテ「荊棘のごとく乱して。
地「旧りたる烏帽子引きかづき。
シテ「又眉根黒き乱墨。
地「うつし心か村烏。
シテ「憂かれと人は添ひもせで。
地「思はぬ人を尋ぬれば。
シテ「親子のちぎり麻衣。
地「肩を結んで裾にさげ。
シテ「すそを結びて肩にかけ。
地「莚切。
シテ「菅薦の。
地「みだれ心ながら南無釈迦弥陀仏と。信心をいたすも。我子に逢はんためなり。
シテ「南無や大聖釈迦如来。我子に逢はせ狂気をもとゞめ。安穏に守らせ給ひ候へ。
子詞「如何に申すべき事の候。
ワキ詞「何事にて候ふぞ。
子「是なる物狂をよく〳〵見候へば。古郷の母にて御入り候。恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。
ワキ「是は思ひもよらぬ事を承り候ふ物かな。やがて問うて参らせうずるにて候。いかに此なる狂女。おことの国里は何くの者ぞ。
シテ詞「是は奈良の都に百万と申す者にて候。
ワキ「それは何故かやうに狂人とは為りたるぞ。
シテ「夫には死して別れ。只一人ある忘形見の翠子に生きて離れて候ふ程に。思ひが乱れて候。
ワキ「さて今も子と云ふ者のあらば嬉しかるべきか。
シテ「仰せまでもなしそれ故にこそ乱髪の。遠近人に面をさらすも。もしも我子に廻りや逢ふと。車に法の声立てゝ。念仏申し身を砕き。我子に逢はんと祈るなり。
ワキ「げに痛はしき御事かな。誠信心わたくしなくは。かほど群集の其中に。などかは廻り逢はざらん。
シテ詞「嬉しき人の言葉かな。それに附きても身を砕き。法楽の舞をまふべきなり。囃してたべや人々よ。忝くも此御仏も。羅睺為長子と説き給へば。
地「我子に鸚鵡の袖なれや。親子鸚鵡の袖なれや。百万が舞を見給へ。
シテ「百や万の舞の袖。我子の行方祈るなり。
シテクリ「げにや惟ん見れば。何くとても住めば宿。
地「住まぬ時には故郷もなし。此世はそも何くの程ぞや。
シテサシ「牛羊径街にかへり。鳥雀枝の深きにあつまる。
地「げに世の中はあだ浪の。よるべは何く雲水の。身の果いかに楢の葉の。梢の露の故郷に。
シテ「憂き年月を送りしに。
地「さしも二世とかけし中の。契りの末は花かづら。結びもとめぬあだ夢の。長き別れと為り果てゝ。
シテ「比目の枕敷波の。
地「あはれはかなき契りかな。
クセ「奈良坂の。児の手柏の二面。とにもかくにも侫人の。なき跡の涙越す。袖のしがらみ隙なきに。思ひ重なる年波の。流るゝ月の影惜しき。西の大寺の柳陰。みどり子のゆくへ白露の。起き別れて。いづちとも知らず失せにけり。一方ならぬ思草。葉末の露も青によし。奈良の都を立ち出でゝ。顧り三笠山。佐保の川を打ち渡りて。山城に井手の里。玉水は名のみして。影うつす面影。浅ましき姿なりけり。かくて月日を送る身の。羊の歩み隙の駒。足にまかせて行く程に。都の西と聞えつる。嵯峨野の寺に参りつゝ。四方の景色を詠むれば。
シテ「花の浮木の亀山や。
地「雲に流るゝ大井河。誠に浮世の嵯峨なれや。盛りすぎ行く山桜。嵐の風松の尾。小倉の里の夕霞。立ちこそ続け小忌の袖。かざしぞ多き花衣。貴賤群集する。此寺の法ぞ尊き。彼よりも是よりも。唯此寺ぞ有難き。忝くもかゝる身に。申すは恐れなれども。二仏の中間。我等ごときの迷ひある。道明らめんあるじとて。毘首羯磨が作りし。赤栴檀の尊容。やがて神力を現じて。天竺震旦我朝。三国に渡り。有難くも。此寺に現じ給へり。
シテ「安居の御法と申すも。
地「御母摩耶夫人の。孝養の御為なれば。仏も御母を。かなしび給ふ道ぞかし。況んや人間の身として。などかは母を悲しまぬと。子を恨み身をかこち。感歎してぞ祈りける。親子鸚鵡の袖なれや。百万が舞を見給へ。
地「あら我子恋しや。
シテ「是程多き人の中に。などや我子の無きやらん。あら我子恋しや。我子給べなふ。南無釈迦牟尼仏と。
地「狂人ながらも子にもや逢ふと。信心はなきを南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。心ならずも逆縁ながら。誓ひに逢はせて給び給へ。
ワキ「余りに見るも痛はしや。是こそお事の尋ぬる子よ。よく〳〵寄りて見給へとよ。
シテ「心強や。疾くにも名乗り給ふならば。かやうに恥をばさらさじ物を。あら恨めしとは思へども。
地「たま〳〵逢ふは優曇華の。花待ち得たり。夢か現か幻か。
地「よく〳〵物を案ずるに。〳〵。彼御本尊はもとよりも。衆生のための父なれば。母諸共に廻り逢ふ。法の力ぞ有難き。願ひも三つの車路を。都に帰る嬉しさよ。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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