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富士山 一名 富士

観世小次郎作


ワキ 唐人
シテ 海人女
ツレ 同じく


シテ 富士の山霊

地は 駿河
季は 六月

次第「倭唐吹く風の。〳〵。音や雲路に通ふらん。
ワキ詞「是は唐せうめい王に仕へ奉るせうけいと申す士卒たり。さても我日本に渡り。此土の有様を見るに。山海草木土壌までも。さながら仙郷かと見えて。誠に神国の姿を顕はせり。昔し唐の方士といひしもの。日本に渡り駿河の国富士山にいたり。不死の薬を求め得たるためしあり。われも其遺跡を尋ね。只今駿河の国富士山に赴き候。
道行「唐の。空は雲井に隔て来て。〳〵。東の国に至りても。猶東路の末遠き。海山かけてはる〴〵と。日数重ねて行く程に。名にのみ聞きし富士の嶺や。裾野に早く着きにけり。〳〵。
詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。是は早富士の裾野に着きて候。御覧候へ唐にて聞き及びしよりも。猶いやまさりて目を驚かしたる山の気色にて候ふものかな。又あれを見れば海士と思しき女のあまた来り候。彼者を相待ち。事の子細をも尋ねばやと存じ候。
シテ、ツレ次第「砂長ずる山河や。〳〵。富士の鳴沢なるらん。
シテサシ「朝日さす高根の深雪空晴れて。野は夕立の富士おろし。
三人「雲もおり立つ田子の浦に。船さしとめて海人乙女の。通ひ馴れたる磯の浪の。よるべ何くと定むらん。実に心なき海士なれども。所からとて面白さよ。松風の音信のみに身を知るや。住む蘆の屋の窓の雨。〳〵。打ち寄する。駿河の海は名のみにて。〳〵。浪静かなる朝なぎに。雲は浮島が原なれど。風は夏野の深みどり。湖水にうつる雪までも。妙なる山の御影かな。〳〵。
ワキ詞「いかに是なる人々に尋ね申すべき事の候。
シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「むかし唐の方士と云ひしもの。此富士山に至り。不死の薬を求め得たる例あり。我も其遺跡を尋ねて。是まで来りたり。其遺跡を知り給へりや。
シテ「げに〳〵さる事の有りしなり。昔し鶯の卵化して小女と成りしを。時の帝の皇女に召されしに。時至りけるか天にあがり給ひし時。かたみの鏡に不死の薬を添へて置き給ひしを。後日に富士の嶽にして。其薬を焼きしより。富士の煙は立ちしなり。
ツレ「然れば本号は不死山なりしを。郡の名に寄せて。富士の山とは申すなり。是れ蓬萊の仙郷たり。
ワキ「さては此山仙郷なるべし。先づ目前の有様にも。今は水無月上旬なるに。雪まだ見えて白妙なり。これは如何なる事やらん。
シテ「さればこそ我朝にても不審多し。然れば日本の歌仙の歌に。時知らぬ山は富士の嶺いつとてか。鹿の子まだらに雪の降るらん。是れ三伏の夏の歌なり。
ワキ「げに〳〵見聞くに謂れあり。時に当りて水無月なるに。さながら富士は雪山なれば。時知らぬとは理りかな。
シテ「殊更今の詠めの気色。波もゆるがぬ四つの時。
ワキ「暑き空にも雪見えて。
シテ「さながら一季に。
ワキ「夏。
シテ「冬を。
地「三保の松原田子の浦。〳〵。何れも青水無月なるに。高嶺は白き富士の雪を。実にも時知らぬ。山とよみしも理りや。実にや天地の。開けし時よ神さびて。高くたふとき駿河の富士。実にも妙なる山とかや。〳〵。
クリ地「抑も此富士山と申すは。月氏しちだふの大山。天竺より飛び来る故に。即ち新山となづけたり。
シテサシ「頂上は八葉にして。内に満池を湛へたり。
地「神仙人気の境界として。四季をり〳〵を一時に顕はし。天地陰陽の通道として。希代の霊験他に異なり。
クセ「凡そ富士の嶺は。年に高さや増るらん。消えぬが上に積る雪の。見れば異山の。高嶺々々を伝ひ来て。富士の裾野にかゝる雲の。上は晴れて青山たり。何くより降るやらん。雲より上の白雪は。然れば此山は。仙郷の隠れ里の。人間に異なる其瑞験もまのあたり。竹林のおほひとして。皇女に備はりて。鏡に不死薬を添へつゝ。別るゝ天の羽衣の。雲路に立ち帰つて。神と成り給へり。
シテ「帝その後。かくや姫の教へに随つて。
地「富士の高嶺の上にして。不死の薬を焼き給へば。煙は満天に立ち登つて。雲霞逆風に薫じつゝ。日月星宿もさながら。あらぬ光りをなすとかや。さてこそ唐の方士も。此山に登り不死薬を。求め得て帰るなり。これ我朝の名のみかは。西天唐土扶桑にも。ならぶ山なしと名を得たる。富士山の粧ひ。誠に上なかりけり。
ワキ詞「富士山の謂れは承り候ひぬ。さて〳〵あれに見えたる山は。いかなる山と申すやらん。
シテ詞「あれは足高山とて。富士にならべる高山にて。金胎両部をあらはせり。これ足高の神前なり。
ワキ「さて〳〵浅間大菩薩とは。取り分き何れの神やらん。
シテ「あう浅間大菩薩とは。さのみは何と優女の姿。
地「恥かしやいつかさて。〳〵。其神体を顕はして。誰にか見えけん神の名を。さのみに顕はさば浅間の。あさまにやなりなん。不死の薬はあたふべし。しばらくこゝに待てしばし。芝山の雲と成つて。立ち登る富士の嶺の。行方知らずなりにけり。〳〵。(中入)
地「かゝりければ富士の御嶽の雲晴れて。金色の光天地に満ちて。明方の空は明々たり。
後ジテ「抑も是は富士山に住んで悪魔を払ひ国土を守る。火の御子とはわが事なり。こゝに漢朝の勅使此所に来り。不死の薬を求む。其志深き故。不老不死の仙薬を。即ち彼にあたふべしと。
地「神託あらたに聞えしかば。〳〵。虚空に音楽聞えつゝ。姿も妙なるかくや姫の。薬を勅使にあたへ給ふ。有難や。笙笛琴箜篌孤雲の御声。〳〵。誠なるかな富士浅間の。唯今の影向。実にも妙なる有様かな。
シテ「夫れ我朝は。粟散辺地の小国なれども。
地「粟散辺地の小国なれども。霊神威光を顕はし給ひ。悪魔を退け衆生を守る。中に殊なる富士の御嶽は。金胎両部の形を顕はし。まのあたりなる仙郷なれば。不老不死の薬を求め。勅使は二神に御暇申し。漢朝さして帰りければ。かくや姫は紫雲に乗じて。富士の高嶺にあがらせ給ひ。内院に入らせおはしませば。猶照りそふや火の御子の。姿は雲井によぢのぼり。姿は雲井によぢ登つて。虚空に上らせ給ひけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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