冊子型のPDFファイルをダウンロードしていただけます。
プリントアウトの上、中央を山折りにし、端を綴じてご活用ください。

 

 

 

 

松山鏡

ワキ 父
姫 その娘
ツレ その母
シテ 倶生神

地は 越後
季は 雑

ワキ詞「是は越後の国松の山家に住居する者にて候。さても某久しく添ひ馴れし妻におくれ。昨日今日とは存じ候へども。はや三年になりて候。又忘形見に姫を一人持ちて候ふが。あまりに母が事を歎き候ふ程に。対の屋を作り傍に置きて候。又今日は彼が母の命日にて候ふ程に。持仏堂に立ち出で。焼香せばやと思ひ候。
姫サシ「雲となり雨となり。陽台の時とゞめがたく。花と散り雪と消え。金谷の春ゆくへもなし。月日の道に関守なければ。母御に離れて今年ははや。既に三年の其日なり。
ワキ詞「あら無慙や。何事やらん姫が独言を申し候。いかに姫が有るか。父が来りたるぞ。持仏堂をあけ候へ。あら不思議や。何やらん物を立ち隠すやうに候。如何に姫。さても汝が母におくれし時。元結切り遁世せばやと存じ候ひつれども。一族どもの諌めにより。今まで浮世の住居たり。汝男子ならば父と一所に有るべけれども。女子なれば対の屋を作り置くなり。それに父が来りて姫よと呼ばゝ。さも嬉しげにて立ち迎ふべきにさはなくして。何やらん物を立ち隠すけしきの見えて候。さては人の申すも誠にて候ひけるぞや。実に汝は今の母を木像に作り。明暮呪咀するといふは誠か。何とて左様にあさましき心をば持ちて有るぞ。母を恋しく思はゞ。経念仏し弔ひてこそ。死したる母も成仏し。おことも同じ蓮の縁となるべきにさはなくして。さやうに恐ろしき事をたくまば。正しく浮ぶべき母も奈落に沈み。おことも同じ罪に沈むべき事のあさましさよ。何とて物をば申さぬぞ。
姫「さやうに御叱り候はゞ。かくさず申し候ふべし。いたはしや母御前。今を限りの御時。此鏡を和御前に取らするなり。母が姿を残す形見なり。恋しき時は見るべしと。おほせ候ひし程に。ある時此鏡を見れば。母の面立うつりしより。猶若やぎて見え給へば。
地「さてはなからん跡までも。〳〵。添ひ添はれんと面影を。残させ給ひける。母御の慈悲ぞ有難き。不審に思し召されば。見せ参らせん鏡山。立ち寄り給へ父御前。〳〵。
ワキ詞「是は不思議なる事を申す物かな。空しくなりし母の何しに鏡にうつりて見え候ふべき。但し屹度思ひ出だしたる事の候。漢の武帝の后李夫人なくならせ給ひて後。帝后の御別れを悲しみ給ひ。御姿を甘泉殿の壁に写し。明暮叡覧有りしかども。もとより絵に書ける形なれば。物いはず笑はず。なか〳〵愁ひぞ増さると悲しみ給ふ。ある時仙人の告げていはく。まこと后の御姿を。叡覧有りたく思し召さば。月の夜の隈なからんに。反魂香を焚き給へと有りしかば。教へにまかせて月の夜の隈なきに。反魂香を焚き給へば。煙の内に后の御姿まみえ給ひしためしもあり。又我朝の聖武皇帝の后。光明皇后なくならせ給ひて後。是も后の御別れを悲しみ給ひ。梵天に祈誓し給へば。閻王憐れみ給ひ。玉の輿に乗せ奉り。二たび娑婆に送り給ひしためしもあり。さりながらそれは上代の事。是は末世の今の世に。さやうの事の有るべきとは存じ候はねども。かれが母も姫に名残を深く惜しみ候ひし程に。もし又さやうの事もや候ふらん。立ち寄りて鏡を見ばやと存じ候。や。さればこそ筋なき事を申し候。やあ如何に姫。此鏡に母が影のうつる事はなきぞとよ。何とて筋なき事をば申すぞ。
姫「恨めしやあれ程母のましますを。思ひ隔てゝ山鳥の。おろかに見させ給ふかと。鏡の前に泣き居たり。実にや別れての。涙もいまだ干ぬ袖に。異妻を重ね給ひぬれば。其恨みにや恋衣の。見えじとおぼしめさるらめ。よし父にこそ疎くとも。
地「我には見えよ垂乳根の。親の飼ふ蚕の眉墨の。いと細し誰をかも。恋ひ痩せ顔ぞ見ても泣く。涙がすみの悲しやな。底より曇り増鏡。あれこそ母よ御覧ぜよと。我影に指をさす。実にあはれなりさればこそ。幼き身の心なれ。〳〵。
ワキ詞「言語道断の事。我影の鏡に移るを見て。母が影にて有る由を申し候ふは如何に。総じて此松の山家と申すは。無仏世界の所にて。女なれどもはごねをつけず。色を飾る事もなければ。まして鏡などゝ申す物をも知らず候ひしを。某一年都に上りし時。鏡を一面買ひとりて彼が母に取らせて候へば。世になき事に悦び候ひしが。今はの時姫を近づけ。我を恋しく思はん時は。此鏡を見よと申しゝ程に。我影の移るを見て母と思ひ歎く事の不便さは候。いや〳〵所詮鏡の謂を語つて歎きをとゞめばやと思ひ候。やあ如何に姫。総じて鏡といふ物には。何にてもあれ向ふ物の影の移るぞとよ。是々見候へ。父が立ちよれば父が影。扇を移せば扇の影。こゝを以て思ひ知れ。
姫「実に〳〵父のおほせの如く。今こそかくとも三吉野の。
ワキ「岸の山吹風吹けば。
姫「底なる影も散れば散り。
ワキ「靡けば靡く欵冬の。
姫「影をあやまつ。
ワキ「はかなさよ。
地「子ながらも。是ほど母に似けるよと。わが影ながらなつかしや。
ワキ「父は涙にかきくれてや。
地「我こそは曇らすれ。面目なの鏡や。
母「子は親に。似るなる物と思はれて。恋しき時は鏡をぞ見る。
地クリ「往時渺茫としてすべて夢に似たり。旧友零落してなかば泉に帰す。
母サシ「之を水といはんとすれば。
地「即ち漢女が粉を添ふる鏡清瑩たり。
母「花といはんとすれば蜀人文を洗ふ錦。
地「我とても。娑婆の故郷に立ち帰らば。錦の袴君が為め。
母「昔を語り申すべし。
地「夢おどろかし給ふなよ。
クセ「唐に陳氏とて。賢女の聞え有りけるが。世のならひ思はずも。夫遠行の子細あり。是や限りと思ひけん。形見の鏡割りて猶。光りぞ残る三日月の。宵に待ち明けて恨み。文も絶え主も来ず。憂き年月を故郷の。軒端の荻の秋更けて。風の便りの伝聞けば。夫は其国の主となり。あらぬ妹背の川波の。立ち帰るべきやうもなし。さては逢ふ事も形見の鏡我ひとり。涙ながらに影見れば。半月の山の端に。打ち傾いて泣くならで。せんかたもなき折節に。
母「いづくよりとも知らざりし。
地「鵲ひとつ飛び来り。陳氏が眉に羽を休め。飛びめぐり飛びさがり。舞ふよと見しが不思議やな。有りし鏡の割となり。もとの如くになりにけり。満月の山を出で。碧天を照らす如くなり。是や賢女の。名を磨く鏡なるべし。
シテ「如何に罪人何とて遅きぞ。
詞「片時の暇といひつるに。冥官怒りをなし給へば。倶生神急ぎ苦患を見せよとの仰せを蒙り。瞋恚の燃えたつ熱鉄のしもとを振り上げて。
地「空蝉の。〳〵。骸は娑婆にや留まるらん。魂は冥途にもぬけの衣の。玻璃の鏡の潔き。面前に引つさげ引き向け。あれ見よ娑婆にての罪科よ。
シテ「こは如何に不思議やな。
地「こは如何に不思議やな。孝子の弔ふ功力によつて。鏡の影をよく〳〵見れば。頭に玉座膚は金色。両臂をかゞみて手を合はすれば。さながら菩薩の座像かと。御空に花降り虚空に音楽。聞かず見もせぬ冥途の奇特。すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと踏み鳴らし。大地をかつぱと踏み破つて。奈落の底にぞ入りにける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著

このコンテンツは国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物により作成されています。
商用・非商用問わず、どなたでも自由にご利用いただけます。
当方へのご連絡も必要ありません。
コンテンツの取り扱いについては、国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物の利用規約に準じます。
詳しくは、国立国会図書館のホームページをご覧ください。
国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載