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ワキ 左近丞
シテ 市来殿の妻
ツレ 侍女

地は 薩摩
季は 雑

ワキ詞「是は九州薩摩の国。市来殿の御内に左近の丞と申す者にて候。さても頼み奉り候ふ御方は。長々御在京にて候ふが。空しくならせ給ひて候。御形見と御文を賜り。故郷に罷り下り候。
道行「此程の。旅の衣の日も添ひて。〳〵。幾夕暮の宿ならん。船路はる〴〵過ぎ行けば。急ぐ心の程もなく。薩摩の国に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。是は早故郷に着きて候。如何に案内申し候。
シテ「誰にて渡り候ふぞ。
ワキ「左近の丞が罷り下りて候。
シテ「左近の丞と申すか。人までもなしこなたへ来り候へ。都には何事も候はざりけるか。何とて物をば申さずして涙に咽び候は。あら心もとなや候。
ワキ「面目もなき申事にて候へども。都にて空しくならせ給ひて候。
シテ「是は夢かや現かや。遅しと待ちし其人の。亡き身と聞けば恨めしや。
ワキ「御嘆きは尤にて候。是に御形見と御文の候ふ是々御覧候へ。
シテ「さても〳〵たゞ仮初に立ち出でゝ。又も帰らぬ梓弓。引馬の野辺の初雁の。文の音づればかりにて。主は渚の藻塩草。よるべをいつと定むらん。又忘形見の一人姫。菩提を弔ひて給ふべし。御身の事はともかくも。申すも中々あだ心と。書き給ひたる恨めしさよ。奥に一首の歌を書く。月出でゝ西に傾く影を見ば。我諸共に行くと思へよ。
下歌「書き流したる水茎の。行方も知らず果もなくて。よしなの御文や。主こそ恋しかりけれ。
上歌「思ふ涙の乱れ故。〳〵。常より変はる心こそ。はや物狂なりけれ。〳〵。
シテ一声「春風に。吹き乱れたる糸柳。風狂じてや狂ふらん。
詞「如何に人々聞き給へ。忘れもやらぬ我夫の。形見に残る此鞠を。花にて作りかゝりに掛け。いざや学びて慰まん。
ツレ「仰に随ふ女房達。皆庭上に参りたり。
詞「鞠の人数を定め給へ。
シテ「げによく宣ふ物かな。花のかゝりは桜の局。
ツレ「松の下には。
シテ「常磐の前。
ツレ「紅葉の下には。
シテ「林間の局。
ツレ「柳の下には。
シテ「いとなつかし。
地「逢瀬をば。いさ白糸のながらへて。〳〵。形見に今はなるべきを。手づから植ゑし木の本に。立ち寄りて磯馴松の。向ひづめに立たうよ。夕霧の涙の。雨こそ小雨なりけれ。
ツレ詞「如何に申し候。亡き人の御跡を弔ひ給はゞ如何ならん。貴き人にも近づき。経論聖教。有難き事を聞きてこそ。亡き人も嬉しと思し召さるべけれ。鞠と申すはけてうの遊び。よそ目と申し恥かしうこそ候へ。
シテ「何わらは女の身にて鞠を学ぶ事。仏果の縁にならずと宣ふか。それこそ御身の愚なれ。鞠の起りを語つて聞かせん。
カタリ「それ鞠の起りを尋ぬるに。先づ八人の相手は法華の八軸。四本のかゝりを加へて十二因縁をかたどり。相手の鞠悪しからざれと。思ふ心は仏果の縁。されば嘆きの其内にも。鞠をば蹴ると申すなり。その上鞠といふ事は。蚩尤が頭をかたどり。帝悪魔を平らげ。天下を治め給ひしなれば。喜び楽しみありやあふと。
地「虚空に鞠をどうと蹴て。〳〵。何か心にかゝりありと。一念忘草の。陰なる亡者も。成仏の縁にならざらん。よしや人目にはともあれ。
シテ「我は忘れぬ夫の形見の。
地「かゝりに掛け置きて。いつまでも学び慰まん。
サシ「女は思ひのやる方なく。深く愚痴なる謂れにより。仏も戒め給ふなり去りながら。
地「是はためしも亡き人の。形見に残る此鞠を。女の身にて学ぶ事。是ぞ誠の乱れなる。
クセ「さても我夫の。都に上り給ふ時。稽古の鞠の有りしには。自ら立ち出で。かゝりを植ゑ給ひしに。紅葉に松を並べたり。げにや古き詩に。林間に酒を暖め。紅葉を焚かん其頃も。誰をか共に見るべき。松も常磐の風情にて。冬とても葉をも変へざれば。つれなき色は恨めしや。花見んと。植ゑにし人も何ならず。消ゆれば露に異ならずと。よみしも理りや。今更思ひ知られたり。
シテ「柳の糸の枝それて。
地「逢瀬はいづく亡き人の。花散り残る青葉まで。又匂ふ梅の花垣。よるとは見えて音絶えぬ。藤波かゝる老松の。何れも名残は有明の。月の夜すがら寐もせで。人々を集め酒を勧め。今様朗詠の。遊びさま〴〵の其中に。
シテ「取り分きて忘形見は。此鞠姿のたぐひなやな。
地「鷹を据ゑ鞭を打ち。鹿を追うたる有様は。
シテ「曲足の狂鞠。
地「大枝にあたつて落つる鞠をば。
シテ「地を踏んで足をはねたり。
地「軒に当つて返る鞠をば。
シテ「身をつゞめ密かに待つ。
地「ひそくを放して遠く行くをば。
シテ「足をひろうて追うて行く。
地「かゝりに結んで暫し残るを。
シテ「ありと乞うて。
地「追うつ。
シテ「だいつ。
地「のべつ。
シテ「しめつ。
地「飛行自在に狂ひ給ふを。制し兼ねつゝ人々は。此御鞠をおつ取り隠せば。
シテ「こは如何にばい足と。
地「いふ言の葉も弱々と。倒れ臥柳力尽きて。かゝりぞ便りなる。あゝ苦しいざや休まん。
ワキ「皆々御くたびれにて候ふ程に。某酒を一つ申さうずるにて候。
シテ「あら嬉しの事を申す物かな。わらは狂女なれば舞を舞ふべし。囃して給び候へ。
地「いとせめて。(舞)
シテ「いとせめて。
地「いとせめて。恋しき時は烏羽玉の。夜半の衣を返し見れども。恋しき人は渚の千鳥。泣くばかりなりけりと。猶々現なく。狂ひ給へば立ち寄り。御衣の袖に取り付くを。狂人は袖を振り切り。逃ぐれば跡を追鳥の。つれ物狂なりけりと。人や見るらん恥かしや。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著

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