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弱法師

結崎十郎作

ワキ 高安通俊
シテ 俊徳丸

地は 摂津
季は 二月

ワキ詞「かやうに候ふ者は。河内の国高安の里に。左衛門の尉通俊と申す者にて候。さても某子を一人持ちて候ふを。さる人の讒言により暮に追ひ失ひて候。余りに不便に候ふ程に。二世安楽の為め天王寺にて。一七日施行を引き候。今日も施行を引かばやと存じ候。
シテ一声「出入の。月を見ざれば明暮の。夜の境をえぞ知らぬ。難波の海の底ひなく。深き思ひを人や知る。
サシ「夫れ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目の枕の上には。波を隔つる愁ひあり。況や心あり顔なる。人間有為の身となりて。憂き年月の流れては。妹背の山の中に落つる。吉野の川のよしや世と。思ひもはてぬ心かな。あさましや前世に誰をか厭ひけん。今又人の讒言により。不孝の罪に沈む故。思ひの涙かき曇り。盲目とさへなりはてゝ。生をも変へぬ此世より。中有の道に迷ふなり。
下歌「元よりも心の闇は有りぬべし。
上歌「伝へ聞く。彼一行の果羅の旅。〳〵。闇穴道の巷にも。九曜の曼陀羅の光明。赫奕として行末を。照らし給ひけるとかや。今も末世と言ひながら。さすが名に負ふ此寺の。仏法最初の天王寺の。石の鳥居こゝなれや。立ち寄りて拝まん。いざ立ちよりて拝まん。
ワキ「頃は二月時正の日。誠に時も長閑なる。日を得て普き貴賤の場に。施行をなして勧めけり。
シテ詞「実に有難き御利益。法界無辺の御慈悲ぞと。踵をついで群集する。
ワキ「や。これに出でたる乞丐人は。如何さま例の弱法師よな。
シテ「又我等に名を付けて。皆弱法師と仰せ有るぞや。実にも此身は盲目の。足弱車の片輪ながら。よろめきありけば弱法師と。名付け給ふは理なり。
ワキ詞「実に言ひ捨つる言の葉までも。心ありげに聞ゆるぞや。先々施行を受け給へ。
シテ「あら有難や候。や。花の香の聞え候。いかさま此花散りがたになり候ふな。
ワキ「あふ是なる籬の梅の花が。弱法師が袖に散りかゝるぞとよ。
シテ「うたてやな難波津の春ならば。唯この花とこそ仰せ有るべきに。今は春べも半ぞかし。梅花を折つて頭にさしはさまざれども。二月の雪は衣に落つ。あらおもしろの花の匂ひやな。
ワキ「実に此花を袖に受くれば。花もさながら施行ぞとよ。
シテ詞「中々の事草木国土。悉皆御法も施行なれば。
ワキ「皆成仏の大慈悲に。
シテ「漏れじと施行に連なりて。
ワキ「手を合はせ。
シテ「袖を広げて。
地「花をさへ。受くる施行のいろ〳〵に。〳〵。匂ひ来にけり梅衣の。春なれや。何はの事か法ならぬ。遊び戯れ舞ひ謡ふ。誓ひの網には漏るまじき。難波の海ぞ頼もしき。実にや盲亀の我等まで。見る心地する梅が枝の。花の春の長閑さは。何はの法によも漏れじ。〳〵。
地クリ「夫れ仏日西天の雲に隠れ。慈尊の出世はるかに。三会の暁いまだなり。
シテサシ「然るに此中間に於て。何と心をのばへまし。
地「こゝによつて上宮太子。国家をあらため万民を教へ。仏法流布の世となして。普く恵を弘め給ふ。
シテ「然れば当寺を御建立あつて。
地「始めて僧尼の姿を顕はし。四天王寺と名付け給ふ。
クセ「金堂の御本尊は。如意輪の仏像。救世観音とも申すとか。太子の御前生。震旦国の思禅師にて。渡らせ給ふ故なり。出離の仏像に応じつゝ。今日域に至るまで。仏法最初の御本尊と。顕はれ給ふ御威光の。誠なるかなや。末世相応の御誓。然るに当寺の仏閣の。御作の品々も。赤栴檀の霊木にて。塔婆の金宝に至るまで。閻浮檀金なるとかや。
シテ「万代に。澄める亀井の水までも。
地「水上清き西天の。無熱池の。池水をうけつぎて。流れ久しき世々までも。五濁の人間を導きて。済度の舟をも寄するなる。難波の寺の鐘の声。異浦々に響き来て。普き誓ひ満潮の。おし照る海山も。皆成仏の姿なり。
ワキ詞「あら不思議や。是なる者をよく〳〵見候へば。某が追ひ失ひし子にて候ふは如何に。思ひのあまりに盲目となりて候。あら不便と衰へて候ふものかな。人目もさすがに候へば。夜に入りて某と名のり。高安へ連れて帰らばやと存じ候。やあ如何に日想観を拝み候へ。
シテ詞「実に〳〵日想観の時節なるべし。盲目なればそなたとばかり。心当なる日に向ひて。東門を拝み南無阿弥陀仏。
ワキ詞「何東門とは謂なや。こゝは西門石の鳥居よ。
シテ「あらおろかや天王寺の。西門を出でゝ極楽の。東門に向ふは僻事か。
ワキ「実に〳〵さぞと難波の寺の。西門を出づる石の鳥居。
シテ「阿字門に入つて。
ワキ「阿字門を出づる。
シテ「弥陀の御国も。
ワキ「極楽の。
シテ「東門に。向ふ難波の西の海。
地「入日の影も舞ふとかや。
シテ詞「あらおもしろや我盲目とならざりし先は。弱法師が常に見馴れし境界なれば。なに疑ひも難波江に。江月照らし松風吹き。永夜の清宵何の為す所ぞや。住吉の。松のひまより詠むれば。
地「月落ちかゝる淡路島山と。
シテ「詠めしは月影の。
地「詠めしは月影の。今は入日や落ちかゝるらん。日想観なれば曇りも波の。淡路絵島須磨明石。紀の海までも見えたり〳〵。満目青山は心にあり。
シテ「あふ。見るぞとよ〳〵。
地「さて難波の浦の致景の数々。
シテ「南はさこそと夕波の。住吉の松陰。
地「東の方は時を得て。
シテ「春の緑の草香山。
地「北は何処。
シテ「難波なる。
地「長柄の橋のいたづらに。かなたこなたと歩く程に。盲目の悲しさは。貴賤の人に行き合ひの。まろびただよひ難波江の。足もとはよろ〳〵と。実にも誠の弱法師とて。人は笑ひ給ふぞや。思へば恥かしやな。今は狂ひ候はじ。今よりは更に狂はじ。
ロンギ地「今は早。夜も更け人も静まりぬ。如何なる人の果やらん。其名を名のり給へや。
シテ「思ひよらずや誰なれば。我いにしへを問ひ給ふ。高安の里なりし。俊徳丸が果なり。
地「さてはうれしや我こそは。父高安の通俊よ。
シテ「そも通俊は我父の。其御声と聞くよりも。
地「胸うち騒ぎあきれつゝ。
シテ「こは夢かとて。
地「俊徳は。親ながら恥かしとて。あらぬ方へ逃げ行けば。父は追ひ付き手を取りて。何をか包む難波寺の。鐘の声も夜まぎれに。明けぬ先にと誘ひて。高安の里に帰りけり。〳〵。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著

「弱法師」には現行とは別に演出の異なる世阿弥自筆能本があり、以下の書物で詞章を読むことができます。

現行の「弱法師」はシテとワキのみが登場し、要素を極限まで削ぎ落して俊徳丸の心の内を表すことに重きを置くものですが、そもそも日想観(じっそうかん)の信仰がある四天王寺において、この物語の当日、彼岸の中日ともなれば、石鳥居に沈む夕日を拝もうという人々で大混雑していたはずです。
これが世阿弥自筆能本になると、全体の段取りは現行とさほど変わらないものの、現行には登場しない人物が何人か加わって、俊徳丸を囲む賑わいの雰囲気が絵面からも捉えやすく、より元雅作品らしく迫真性のある内容となっています。
目立つ違いとしては俊徳丸を介助する妻がおり、ツレとして登場します。
この妻を相手に問答しつつ日想観を拝む場面は、胸を打つ見どころの一つです。

  • 『日本古典文学大系 第40 謡曲集 上』横道万里雄、表章 校注 岩波書店 1960年 404~412ページ+校異補記468~469ページ

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現在は廃曲となっている関連曲の「天王寺物狂」は、現行の「弱法師」とは辻褄が合いませんが、世阿弥自筆能本とは前日譚後日譚の関係にもなり得る曲で、俊徳丸がのちに妻となる女性とめぐり会う場面が描かれます。
この「天王寺物狂」と世阿弥自筆能本に登場する俊徳丸を恋い慕う女性は、原話とされる俊徳丸伝説の乙姫であり、俊徳丸を中心に置く人間曼陀羅に花を添える人物です。

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