朝顔
小田切能登守作 前 ワキ 都の僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 朝顔の精 地は 京都 季は 秋 ワキ詞「かやうに候ふ者は。元は都の者にて候ひしが。親に後れし愁歎により。元結切り諸国を廻り候。又何とやらん古郷なつかしく候ふ間。此秋思ひ立ち都に上り候。 道行「身を変へて。後も待ち見よ此世にて。〳〵。親を忘れぬ習ひぞと。思ひ初めたる黒髪の。乱心を振り捨てゝ。迷はぬ法の道問へば。本の悟りの名にし負ふ。都と聞くぞ頼もしき。〳〵。 詞「是は早都に上りて候。此あたりは一条大宮仏心寺と申す寺にて有りげに候。あら笑止や。俄に村雨の降り来りて候。是なる寺に立ち寄り雨を晴らさばやと思ひ候。あら美しの草花や候。籬を見れば秋の草。所争ふ其中に。殊に萩朝顔の今を盛りと咲き乱れて候。此花を一もと手折らばやと思ひ候。秋萩を折らでは過ぎじ月草の。花摺衣露に濡るともと。古言ながら思ひ出でられて候。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧。其萩の歌にて候はずとも。所に付けたる古歌は有るべきぞかし。紫のゆかりの有りて秋萩を。折らでは過ぎじと宣ふやらん。 ワキ詞「いやゆかりなんどゝは候はねども。只何となく思ひ出でられたる古言なり。 シテ「咲く花に移るてふ名はつゝめども。折らで過ぎうき今朝の朝顔と。もてはやさるゝも有るものを。只萩のみを御賞翫の。恨みは数々多けれど。よし〳〵申すまじ。此花を御法の花になし給へ。 ワキ「さては此寺は故ある所にて候ひけるぞや。又御身もいかなる人にてましますぞ。御名を名乗り給ひ候へ。 シテ「今は何をかつゝむべき。我は朝顔の花の精なるが。仮初にも此花を仏の前の手向草となす人はなくして。名に準ふる事とし事は。恋慕愛執の種となる事。歎きの内の歎きなり。適御僧に逢ひ奉るうれしさに。一句をも聴聞申し。仏果を得んと思ふ故。かやうに顕はれ出でたるなり。 ワキ「さては朝顔の花の精にてましますかや。仏果の縁となる事も。懺悔に過ぎたる事あらじ。唐朝の古へも。帽上の紅槿とて。紅の槿を簪の上に飾りつゝ。曲をなしつる例あれば。急ぎ衣冠を着しつゝ。狂言綺語をなし給へ。 シテ「恥かしやかゝりと聞きし言の葉を。今改めて申すならば。いさむる神のありやせん。よし〳〵それは兎も角も。顕はれ出でゝ言の葉を。互に交はす此上は。何をかさのみつゝむべき。 地「花衣重ねて。来つゝ語らん其程は。暫く待たせ給へとて。霧の籬に。立ち隠れ失せにけり。跡立ち隠れ失せにけり。(中入) ワキ歌「古へに。是やなるてふ桃園の。〳〵。跡はる〴〵の遠き世を。今聞く事の不思議さよ。暫くこゝに休ひて。其朝顔の色深き。花のゆかりを尋ねん。〳〵。 後ジテ「あらうれしや衣冠を着し。歌舞の菩薩の如くに成りて。歌ふ心や法の花の。台に至らん有りがたさよ。いよ〳〵仏果を授け給へ。 ワキ「実にや頼め置きつる言の葉かへず。重ねて顕はれ給ふ事。妄語のなきこそ有難う候へ。同じくは此寺の御謂れ。又御身の妄執なんどをも。委しく語り給ふべし。 シテ「抑此寺と申すは。桐壺の帝の御弟に。 地「式部卿と申せし人の住み給ひし。桃園の宮の御旧跡。 シテサシ「其御息女のましますが。賀茂の斎に備はりて。 地「朝顔の斎院と申しゝなり。光源氏は折々に。露の情をかけまくも。忝しと神職に。かごとをなして靡かず。 シテ「然りとは申せども。 地「たはぶれにくゝ紫の。色にくだきし御心も。朝顔の浅からぬ恨みとかや。又は牽牛花とも申せば。星の契りもよそならず。 クセ「遊子伯陽といひし人。偕老を契る事。二八三四の旬なり。共に玉兎を愛して夜もすがら。東楼の辺にまします。夕べには出づべき月を待ちて。遠境にさそらひ。暁は入方の。月を惜みてせんぼうの。高きに攀ぢ上る。 シテ「伯陽此世を去りしかば。 地「遊子は深く歎きて。月の前に彳むに。互に姿を見々えし。其執心にひかれて。牽牛織女の二星となり。烏鵲紅葉の橋を頼む事も。かゝる浅ましき。執心の基なりけり。さりながら朝開暮落すべて閑事。たゞ要す人色。是空なる事を。知ると作れる詩の心は。色則是空なり。あら面白の心や。面白や。 シテ「朝顔は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を期せず。かやうにあだなる喩へなれども。よし〳〵それも。いとはじや〳〵。 地「千年の松も。終には枝朽ちぬ。 シテ「三千年に。なるてふ桃園の宮もなし。 地「一日の槿花も。 シテ「一度の栄えは有る物を。〳〵。 地「彼も是も。よく〳〵思へば夢の内なり。夢の世ぞや。 シテ「只うれしきは。御僧に逢ひ奉りて。 地「御法に値遇の縁となれば。草木国土悉皆仏心の。此御寺は。あひにあひたる法の場かな。法の場かなと歌ひ捨てゝ。野分の風に袖を翻へし。松の梢にかゝると見えしが。其まゝ姿は木の間の日影。其まゝ姿は木の間の日影に。色きえ〳〵とぞなりにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著