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愛宕空也


ワキ 空也上人
シテ 老翁


ワキ 前に同じ
シテ 龍王

地は 山城
季は 雑

ワキ次第「心の月の行末や。〳〵。西の山路に急がん。
詞「是は念仏の行者空也と申す者にて候。我いまだ愛宕山に参らず候ふ程に。唯今思ひ立ちて候。
サシ「昨日も徒に暮らさず。口に名号を称へ。今宵も空しく明かさず。心に極楽を願ふ。無常の虎の声近づくにも。臨終の夕べの唯今ならん事を歓ぶ。雪山の鳥の囀りを思ふにも。来迎の朝を待つ。一度も南無阿弥陀仏と称ふれば。
地「蓮の上に上るなる。〳〵。露の此身を誘ふべき。峰の嵐や谷川の。水の流れも鳴滝の。川路に就きて尋ね行く。雲も上るや月の輪を過ぎて愛宕に着きにけり。〳〵。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早愛宕の御山に着きて候。まづ〳〵地蔵権現へ参らばやと思ひ候。実にや都にて承り及びたるよりも貴き霊地にて御座候ふ物かな。南無や地蔵大菩薩六道能化にてましませば。迷ひの衆生を導き給へ。又是なる法華八軸は。帝より賜はりたる御経なれば。先づ仏前にて読誦申さばやと思ひ候。昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。
地「衆生済度の観世音。〳〵。頼め唯三つの世も。唯一仏ぞ一乗の。法も妙なる一念。阿弥陀仏と称へ給へや。〳〵。
シテ「谷静にしては纔に聞く山鳥の語。橋危うしては斜に踏む峡猿の声。聞くも悲しき老の身の。足弱車法に引かれて。火宅を出づべきうれしさよ。
地クリ「それ始めの御法さま〴〵なれども。為法便力四十余年。未顕真実と説き給ふ。
シテサシ「然れば余経の瓦礫を捨てゝ。
地「妙法一味の玉を拾はんが為めに。ろくすゐげきを顕はし。信心不動の禅定に入り給ひ。一切衆生の迷はざる以前。本来の面目妙法金剛不壊の正体に。導き入れんと呪秘し給ふ。
クセ「されば此経を説き給ふに。天より四華降り。大地六種も震動し。地神龍神も顕はれ。霊山の会座に連なりしに。眉間白毫を放ち給ひ。天地十方を照らしつゝ。光にあたる物皆悉く成仏す。
シテ「斯かる大乗功徳の。
地「妙なる法を聞く時は。霊山会場もこゝなれや。此山松の夕嵐。不求足菩薩住寂静。清浄心を起せとの。教へはさま〴〵の。御法ぞあらたなりける。
シテ詞「いかに上人に申すべき事の候。徒に朽ち果てぬべき老木の桜の。今上人の御法の雨に。湿ひを得て花咲く春に。逢はん事の嬉しさよさりながら。一つの望みを叶へ給へ。
ワキ詞「不思議やな是なる老人忽然と来り。法華を聴聞する気色。唯人ならず見る所に。そも望みとは何事ぞ。
シテ「さん候ふ上人の感得し給ふ。仏舎利を我にたび給へ。
ワキ「易き間の事なれども。空也は舎利を感得せず。まづ〳〵御身は如何なる人ぞ。
シテ「今は何をか包むべき。我は此山に住む龍神なるが。仏舎利を持すれば三熱をまぬかる。包み給ふか上人の。唯今読誦し給ひし。御経の軸の中に仏舎利あり。即ち是をたび給へ。
ワキ「不思議の事を申す者かな。此御経はかたじけなくも。延喜の帝より賜はりたる八軸なれば。仏舎利ありとも知らざりしと。即ち経を開きつつ。軸を放ちてよく見れば。
地「不思議や軸の其中に。〳〵。水晶の箱に入れ。青色の仏舎利。赫灼として見え給へば。即ち取り出だし。老翁に与へたび給ふ。見る人奇異の思ひをなして。上人の御奇特。まのあたりなるあらたさよ。
シテ詞「実に有難き御事かな。此仏舎利を保つならば。熱気熱風金翅鳥の。三つの苦しみをまぬかるべし。此報恩に何事なりとも。望みを叶へ申すべし。
ワキ詞「空也が身には望みなしさりながら。此山上に水なくして。遥かの谷より汲み運ぶ。御身は龍神にてましまさば。水は心にまかすらん。此山上に清水を出だし。絶えぬ流れとなし給へ。
シテ「是れ又易き御事なり。三日が間に老翁が。まことの姿を顕はして。山上に水を出だすべし。
地「いとま申して帰るとて。〳〵。御前を立つて山深み。行くかと見れば姿は。夢の如くに失せにけり。〳〵。(中入)
ワキ「さても有りつる翁の言葉。まことしからず思へども。其約諾を今日の空。気色かはりて雲霧の。〳〵。立ち添ふ影も鳴神の。声も落ち来る雨の足。乱るゝ空の気色かな。〳〵。
地「谷風はげしき雲の波。谷風はげしき雲の波に。浮び出でたる龍神の勢。はるかの谷より上ると見えしが。上人に向ひ。渇仰するこそ有難けれ。
後ジテ「角を傾け上人を礼し。
地「角を傾け上人を礼し。龍王峰に上ると見えしが。枯木を倒し岩根を砕き。大石を引き割りえいやと投ぐれば。岩漏る清水玉散りて。さゞ波立つてぞ流れける。
ワキ「空也は奇異の思ひをなし。
地「空也は奇異の思ひをなして。巌に上りて水を結び。天地に供じ。十方の諸仏に手向くる瀉水。善哉々々と。喜び空也は帰り給へば。龍王忽ち雲を起し。愛宕の峰の梢に翔れば。谷には流るゝ白浪の。浮べば沈み上れば下る。龍王の姿も次第に遠く。〳〵。遥かの谷にぞ帰りける。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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