黒塚 一名 安達原
禅竹作 前 ワキ 東光坊祐慶 ワキヅレ 随行山伏 シテ 賤の女 後 ワキ 前に同じ ワキヅレ 前に同じ シテ 鬼女 地は 陸奥(今は岩代) 季は 秋 ワキ次第「旅の衣は篠懸の。〳〵。露けき袖やしをるらん。 サシ「是は那智の東光坊の阿闍梨。祐慶とは我事なり。 ツレワキ「それ捨身抖擻の行体は。山伏修行の便りなり。 ワキ「熊野の順礼廻国は。皆釈門の習なり。 二人「然るに祐慶此間。心に立つる願あつて。廻国行脚に趣かんと。 歌「我本山を立ち出でゝ。〳〵。分け行く末は紀の路がた。塩崎の浦をさし過ぎて。錦の浜のをり〳〵は。なほしをりゆく旅衣。日も重なれば程もなく。名にのみ聞きし陸奥の。安達が原に着きにけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是はゝや陸奥の安達が原に着きて候。あら笑止や日の暮れて候。此あたりには人里もなく候。あれに火の光の見え候ふ程に。立ちより宿を借らばやと存じ候。 シテサシ「実にわび人のならひ程。悲しきものはよもあらじ。かかる浮世に秋の来て。朝けの風は身にしめども。胸を休むる事もなく。昨日も空しく暮れぬれば。まどろむ夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな。 ワキ詞「如何に此屋の内へ案内申し候。 シテ詞「そも如何なる人ぞ。 ワキ、ツレ「如何にや主聞き給へ。我等始めて陸奥の。安達が原に行き暮れて。宿を借るべき便もなし。願はくは我等を憐みて。一夜の宿をかし給へ。 シテ「人里遠き此野辺の。松風はげしく吹きあれて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか留め申すべき。 ワキ「よしや旅寐の草枕。今宵ばかりの仮寐せん。たゞ〳〵宿をかし給へ。 シテ「我だにも憂き此庵に。 ワキ「たゞ泊らんと柴の戸を。 シテ「さすが思へば痛はしさに。 地「さらばとゞまり給へとて。扃を開き立ち出づる。異草も交じる茅莚。うたてや今宵敷きなまし。強ひても宿を狩衣。かたしく袖の露ふかき。草の庵のせはしなき。旅寐の床ぞ物うき。〳〵。 ワキ詞「今宵の御宿かへす〴〵も有難うこそ候へ。又あれなる物は見馴れ申さぬ物にて候。是は何と申したる物にて候ふぞ。 シテ詞「さん候。是はわくかせわとて。いやしき賤の女のいとなむ業にて候。 ワキ「あらおもしろや。さらば夜もすがら営うで御見せ候へ。 シテ「実に耻かしや旅人の。見る目も耻ぢずいつとなき。賤が業こそ物うけれ。 ワキ「今宵とゞまる此宿の。主の情深き夜の。 シテ「月もさし入る。 ワキ「閨の内に。 地次第「真麻苧の糸を繰り返し。〳〵。昔を今になさばや。 シテ「賤が績苧の夜までも。 地「世わたる業こそ物うけれ。 シテ「あさましや人界に生を受けながら。かゝる浮世に明け暮らし。身を苦しむる悲しさよ。 ワキサシ「はかなの人の言の葉や。まづ生身を助けてこそ。仏身を願ふ便もあれ。 地「かゝる浮世にながらへて。明暮ひまなき身なりとも。心だに誠の道にかなひなば。祈らずとても終になど。仏果の縁とならざらん。 クセ「唯是れ地水火風の。仮にしばらくも纏はりて。生死に輪回し。五道六道にめぐる事。唯一心の迷ひなり。凡そ人間の。あだなる事を案ずるに。人更に若き事なし。終には老となる物を。かほどはかなき夢の世を。などや厭はざる我ながら。あだなる心こそ。恨みてもかひなかりけれ。 ロンギ地「さてそも五条あたりにて。夕顔の宿を尋ねしは。 シテ「日蔭の糸の冠着し。それは名高き人やらん。 地「加茂のみあれにかざりしは。 シテ「糸毛の車とこそ聞け。 地「糸桜。色もさかりに咲く頃は。 シテ「来る人多き春の暮。 地「穂に出づる秋の糸薄。 シテ「月に夜をや待ちぬらん。 地「今はた賤が繰る糸の。 シテ「長き命のつれなさを。 地「長き命のつれなさを。思ひ明石の浦千鳥。音をのみひとり泣き明かす。〳〵。 シテ詞「如何に客僧達に申し候。 ワキ詞「承り候。 シテ「あまりに夜寒に候ふ程に。上の山に上り木を取りて。焚火をしてあて申さうずるにて候。暫く御待ち候へ。 ワキ「御志ありがたうこそ候へ。さらば待ち申さうずるにて候。やがて御帰り候へ。 シテ「さらばやがて帰り候ふべし。や。如何に申し候。わらはが帰らんまで此閨の内ばし御覧じ候ふな。 ワキ「心得申し候。見申す事は有るまじく候。御心安く思し召され候へ。 シテ「あらうれしや候。かまへて御覧じ候ふな。此方の客僧も御覧じ候ふな。 ツレ「心得申し候。(中入) ワキ「ふしぎや主の閨の内を。物の隙よりよく見れば。膿血忽ち融滌し。臭穢は満ちてほうちやくし。膚膩尽く爛壊せり。人の死骸は数しらず。軒とひとしく積み置きたり。如何さま是は音に聞く。安達が原の黒塚に。籠れる鬼の住家なり。 ツレ「恐ろしやかゝる憂き目を陸奥の。安達が原の黒塚に。鬼籠れりと詠じけん。歌の心もかくやらんと。 二人歌「心も迷ひ肝を消し。〳〵。行くべき方は知らねども。足に任せて逃げて行く。〳〵。 後ジテ「如何にあれなる客僧とまれとこそ。さしも隠しゝ閨の内を。あさまになされ参らせし。恨み申しに来りたり。胸を焦がす焰。感陽宮の煙紛々たり。 地「野風山風吹き落ちて。 シテ「鳴神稲妻天地に満ちて。 地「空かき曇る雨の夜の。 シテ「鬼一口に食はんとて。 地「歩みよる足音。 シテ「振りあぐる鉄杖のいきほひ。 地「あたりを払つて恐ろしや。 ワキ「東方に降三世明王。 ツレ「南方に軍荼利夜叉明王。 ワキ「西方に大威徳明王。 ツレ「北方に金剛夜叉明王。 ワキ「中央に大日大聖不動明王。 二人「唵呼嚕々々旋荼利摩登枳。唵阿毘羅吽欠娑婆呵。吽多羅吒干𤚥。 地「見我身者発菩提心。〳〵。聞我名者断悪修善。聴我説者得大智恵。知我身者即身成仏。即身成仏と。明王の繫縛にかけて。責めかけ〳〵祈り伏せにけり。さて懲りよ。 シテ「今まではさしも実に。 地「今まではさしも実に。怒りをなしつる鬼女なるが。忽ちによわりはてゝ。天地に身をつゞめ。眼くらみて足もとは。よろ〳〵とたゞよひめぐる。安達が原の黒塚に。隠れ住みしもあさまになりぬ。あさましや耻かしの我姿やと。言ふ声はなほ物冷ましく。言ふ声はなほ冷ましき。夜嵐の音に。立ちまぎれ失せにけり。夜嵐の音に失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著