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熱海

沢庵和尚作


ワキ 旅僧
シテ 樵の翁


ワキ 前に同じ
シテ 医王善逝

地は 伊豆
季は 夏

ワキ詞「是は東国行脚の僧にて候。我此程は三島の明神に参籠申し。又是より伊豆権現を拝み申さんため。只今御山へと心ざして候。
道行「東雲の。空も明くるや箱根山。〳〵。伊豆の御崎は遥々と。雲に連なるわたづみの。そことしもなきながめして。尾越え嶺越え行く程に。松一むらに打ち煙る。磯山里に着きにけり。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。磯山里に着きて候。暫く休らひ里の名をも尋ねばやと思ひ候。
シテ「誰こゝに久米のさら山さら〳〵に。浮世の品は何事も。耳無山に年を経て。頭の雪や眉の霜。消ゆる命を限りとて。妻木採るにぞ身は苦し。
下歌「かくて夕陽影うつる。家路の方に急がん。
上歌「磯波も。帰れと鳴くや時鳥。〳〵。折知り顔に音づれて。一村雨の遠近に。振るも音する篶分けて。着馴衣露しげく。朽ちまさりぬる袂かな。〳〵。
ワキ「如何に是なる老人に尋ね申すべき事の候。
シテ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「是は東国行脚の僧にて候ふが。伊豆権現へ参詣申さんために。是まで参りて候。さてこゝをば何くと申し候ふぞ。
シテ「是は当国熱海と申す処なり。此里に昔より奇特の御座候。凡そ出湯の名所数々なれども。此里には□□□の天地の呼吸に応じ夜昼四度の満干には。塩の出湯の涌く事熱鉄をわかす鑪鞴の音。又波濤の岸を崩すにひとし。此湯を汲みて家々に。朝夕浴める諸人は。病ふは消えて霜露の如し。
カヽル「げにや温泉の流るゝ処冬の草青しと。ましてや今は深緑。草木が上にも此里に。心を添へて見給へとよ。
ワキ「さて〳〵聞けば不思議やな。その唐帝の古へ。驪山宮の古事を。
シテ「思へば遠き人の国。
ワキ「我国々の名所や。猪名野を分けて有馬山。
シテ「それは津の国。是は又。
ワキ「難波ならねど蘆刈の湯。
シテ「吠え出づる物か犬飼の御湯。
ワキ「入ればしるしを陸奥や。名取の御湯と聞くは如何に。
シテ「汲むとも尽きじ七久里の湯。
ワキ「猶もあるらん又いづこ。
シテ「但馬の出湯浴むとて。
ワキ「二見の浦を通りしも。
シテ「明けてはくやし水の江の。
ワキ「翁さびしき。
シテ「里なれど。
地「処は伊豆の国。病ふの熱海たのもしや。衆病悉除と説き給ふ。仏の国も遠からず。こゝぞさながら東方の。瑠璃の世界もよそならず。天も影移る。誓ひの海の底ふかき。潤は尽きじ見給へや。月も嶺にさし昇る。はや夕汐の出湯かな。〳〵。
ロンギ地「さて面白の浦々や。是に見えたる島山は。如何なる処なるらん。
シテ「見給へ是ぞ世々の人。ながめは経れど見るたびに。珍しければいつまでも。名は新島と申すなり。
地「遥かのよそにほの〴〵と。流れて遠き島あり。
シテ「あれこそ箱根路を。我越えくれば伊豆の海。沖の小島とながめしを。処の者は引きかへて。大島と申し候ふよ。
地「思ひ合はする島々は。神代の昔神たちの。生み始め給ふ淡路島。
シテ「八島の外も数そひて。おのころ島や百島。
地「千島にあたら花や散る。
シテ「蝦夷には見せじ秋の月。
地「猶もあたりの浦山。委しく教へ給へや。
シテ「武士の。八十宇治川にあらねども。篝はそれか氷魚寄する。網代の港あれぞとよ。
地「猶入海の奥ゆかし。小舟さし入る苫屋形。
シテ「身を仇波と打ち捨てゝ。世を伊東が館とはあれなり。
地「青みて遠き山つゞき。
シテ「河津俣野が其むかし。
地「相撲の勝負争ひて。紅葉を顔に散らしゝ。赤沢山の夕づく日。忘れたり方々。御山へ急がせ給ふらん。語ると尽きじ此尉が。繰言もよしなしと。もと来し道に行くと見えて。後影も失せにけりや。うしろかげも失せにけり。(中入)
地「実に信あれば徳ありと。〳〵。疑ふべきや疑はじ。暫くこゝに祈誓して。神の奇特を待ちて見ん。〳〵。
後ジテ「我此名号一経其耳。衆病悉除身心安楽。神といひ仏といひ。只これ水波の隔てぞかし。
詞「我此里に跡を垂れて。所を守り民を撫づる。
カヽル「もとより東方浄瑠璃世界の主。医王善逝我なり。我此名号を一度耳にふれん者は。当代無病の人となり。身心ともに安楽ならしめんとなり。たゞ頼め。(舞)
地「只たのめ。〳〵。しめぢが原のさしも草。
シテ「くゆるは者か。衆生の苦患に変はる身の。
地「胸の猛火に。夜昼四度の塩の出湯。
シテ「万の悩みに注ぎそゝげば。
地「病即消滅不老不死。業障も尽き忽ちに。衆罪も消えて煩悩の雲晴れ。真如の月も。心の空に曇りなく。夜昼分かぬ光を放ち。夜昼分かぬ光を放つ。恵日の影ぞ有難き。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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