一角仙人
禅鳳作 ワキ 官人 シテ 一角仙人 ツレ 旋陀夫人 ツレ 龍神 地は 天竺 季は 秋九月 ワキ詞「是は天竺波羅奈国の帝王に仕へ奉る臣下なり。さても此国の傍に一人の仙人あり。鹿の胎内に宿り出生せし故により。額に角一つ生ひ出でたり。是に依つて其名を一角仙人と名づく。さる子細有つて龍神と威を争ひ。仙人神通を以て諸龍を悉く岩屋の内に封じこむる間。数月雨下らず候。帝此事を歎き給ひ。色々の御方便をめぐらし給ひ候。こゝに旋陀夫人とてならびなき美人の御座候ふを。踏み迷ひたる旅人の如くにして。仙境に分け入り給はゞ。夫人に心を移し。神通を失ふ事も有るべきとの御方便により。夫人を具し奉り。唯今彼山路に分け入り候。 ワキ一声「山遠うしては雲行客の跡を埋み。松寒うしては風旅人の。夢をも破る仮寝かや。 道行「露時雨。漏る山陰の下紅葉。〳〵。色添ふ秋の風までも。身にしみまさる旅衣。霧間を凌ぎ雲を分け。たづきも知らぬ山中に。おぼつかなくも踏み迷ふ。道の行方は如何ならん。〳〵。 ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。何処とも知らぬ山路に分け迷ひ候ふぞや。こゝに怪しき巌の陰より。吹き来る風のかうばしく。松桂の枝を引き結びたる菴あり。若し彼仙境にてもや候ふらん。暫く此あたりに徘徊し。事の由を窺はゞやと思ひ候。 シテサシ「瓶には谷漣一滴の水を納め。鼎には青山数片の雲を煎ず。曲終へて人見えず。江上数峰青かりし。梢も今は紅の。秋の気色は面白や。 ワキ詞「如何に此菴の内へ申すべき事の候。 シテ「不思議やこゝは高山重畳として。人倫通はぬ所なり。そも御身は如何なる者ぞ。 ワキ「是は唯山路に踏み迷ひたる旅人なるが。日もやう〳〵暮れかゝり前後を忘じて候。一夜の宿を御かし候へ。 シテ「さればこそ人間の交りあるべき所ならず。とく〳〵帰り給へとよ。 ワキ「そも人間の交りなきとは。さては天仙の住家やらん。先々姿を見せ給へ。 シテ「此上は恥かしながら我姿。旅人にまみえ申さんと。 地「柴の扉を推し開き。〳〵。立ち出づる其姿。緑の髪も生ひ上る。牡鹿の角の束の間も。仙人を。今見る事ぞ不思議なる。 ワキ詞「唯今思ひ出だして候。これは承り及びたる一角仙人にて御座候ふか。 シテ「さん候是こそ一角と申す仙人にて候。さてさてめん〳〵を見申せば。世の常の旅人に非ず。さも美しき宮女のかたち。桂の黛羅綾の衣。更に唯人とは見え給はず候。是は如何なる人にてましますぞ。 ワキ「さきに申す如く。踏み迷ひたる旅人にて候。旅の疲の慰みに。酒を持ちて候ふ一つ聞し召され候へ。 シテ「いや仙境には松の葉をすき。苔を身に着て桂の露を嘗め。年経れども不老不死の此身なり。酒を用ふる事有るまじ。 ワキ「尤仰はさる御事なれども。唯志を受け給へと。夫人は酌に立ち給ひ。仙人に酒を進むれば。 シテ「実に志を知らざらんは。鬼畜には猶劣るべしと。 地「夕べの月の盃を。〳〵。受くる其身も山人の。折る袖匂ふ菊の露。うち払ふにも千代は経ぬべき。契は今日ぞ始めなる。 夫人「面白や盃の。 地「面白や盃の。めぐる光も照り添ふや。紅葉重の袂を。共に翻しひるがへす。舞楽の曲ぞおもしろき。(楽) 地「糸竹の調べとり〴〵に。〳〵。さす盃も度々めぐれば。夫人の情に心を移し。仙人は次第に足弱車の。めぐるもたゞよふ。舞の袂を片しき臥せば。夫人は悦び官人を引き連れ。遥々なりし山路を凌ぎ。帝都に帰らせ給ひけり。 地「かゝりければ岩屋の内しきりに鳴動して。天地も響くばかりなり。 シテ「あら不思議や思はずも。人の情の盃に。酔ひ伏したりし其隙に。龍神を封じこめ置きし。岩屋の俄に鳴動するは。何の故にて有るやらん。 龍神「如何にやいかに一角仙人。人間に交り心を迷はし。無明の酒に酔ひ伏して。通力を失ふ天罰の。報いの程を思ひ知れ。 地「山風あらく吹き落ちて。〳〵。空かき曇り。岩屋も俄にゆるぐと見えしが。磐石四方に破れ砕けて。諸龍の姿は顕れたり。 シテ「其時仙人驚きさわぎ。 地「其時仙人驚きさわぎ。利剣をおつ取り立ち向へば。龍王は嗔恚の甲冑を帯し。邪見の剣の刃先を揃へ。一時が程は戦ひけるが。仙人神通の力も尽きて。次第に弱り倒れ臥せば。龍王よろこび雲を穿ち。雷鳴稲妻天地に満ちて。大雨を降らし洪水を出だして。立つ白波に飛び移り。立つ白波に飛び移つて。又龍宮にぞ帰りける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著