岩船
前 ワキ 勅使 シテ 童子(天の探女) ツレ 同伴者 後 ワキ 前に同じ シテ 龍神 地は 摂津住吉の浦 季は 秋九月 ワキ次第「げに治まれる四方の国。〳〵。関の戸さゝで通はん。 詞「そも〳〵是は当今に仕へ奉る臣下なり。さても我君賢王にましますにより。吹く風枝を鳴らさず民戸ざしをさゝず。誠にめでたき御代にて候。さる間摂州住吉の浦に始めて浜の市を立て。高麗唐の宝を買ひとるべしとの宣旨に任せ。只今津の国住吉の浦に下向仕り候。 道行「何事も。心にかなふ此時の。〳〵。ためしもありや日の本の。国ゆたかなる秋津洲の。波も音なき四つの海。高麗唐も残りなき。御調の道の末こゝに。津守の浦に着きにけり。〳〵。 ツレ「松風ものどかに立つや住吉の。市のちまたに出づるなり。 二人「遠里小野の草葉まで。 シテツレ一声「君のめぐみによも洩れじ。 シテサシ「夫れ円満十里の外なれども。こゝは所も住吉の。 二人「神と君とは隔てなき。誓ひぞ深き瑞籬の。久しき世々の例とて。こゝに御幸を深緑。松にたぐへて千代までも。たゞしき君の御旅居。何くも同じ日の本の。もれぬ御影ぞありがたき。 下歌「いざ〳〵市に出汐の。月面白き松の風。 上歌「伊勢島や。汐干に拾ふたま〳〵も。〳〵。待ちえにけりな此御代に。鸚鵡の玉鬘。斯かる時しも生れ来て。民ゆたかなる楽しみを。何にたとへん秋津洲や。高麗唐もへだてなき。宝の市に出でうよ。〳〵。 ワキ詞「ふしぎやな市人あまた多き中に。是なる者を能く〳〵見れば。姿は唐人なるが声は大和詞なり。又銀盤に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいかなる人ぞ。 シテ詞「さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。あまりにめでたき御代なれば。龍女が宝珠とも思召され候へ。是は君に捧物にて候。 ワキ「ありがたし〳〵。それ治まれる御代のしるしには。賢人も山より出で。聖人も君につかふといへり。然れば御身は誰なれは。かゝる宝を捧ぐるやらん。委しく奏聞申すべし。 シテ「あらむつかしと問ひ給ふや。もろこし合浦の玉とても。宝珠の外に其名は無し。是も津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。 ワキ「心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意宝珠を。我君にさゝげ奉るか。 シテ「夫れ賢王の御代のしるしには。天も納受し地もうるほひ。かゝる宝も出現すべし。 ワキ「げにげに今の御代の有様。治めぬ国もおのづから。靡きしたがふ四方の国。 シテ「運ぶ宝や高麗百済。 ワキ「唐船も西の海。 シテ「あをきが原の波間より。 ワキ「あらはれ出でし住吉の。 シテ「神もまもりの。 ワキ「道すぐに。 地「こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあたりあらたなる。君の光りぞめでたき。 ロンギ地「千代までと。菊売る市の数々に。〳〵。四方の門辺に人さわぐ。住吉の浜の市。宝の数を売るとかや。 シテ「春の夜の一時の。千金をなすとても。たとへはあらじ住吉の。松風価なし。金銀珠玉いかばかり。 地「千顆万顆の玉衣の。浦ぞ津守の宮柱。 シテ「立つ市館かず〳〵に。 地「御垣もつゞく片そぎの。 シテ「みとしろ錦綾衣。 地「頃も秋なる夕月の。影に向ふや淡路潟。 シテ「絵島が磯はなゝめにて。 地「松のひまゆく捨小舟。 シテ「寄るか。 地「出づるか。 シテ「住吉の。 地「岸うつ浪は茫々たり。松吹く風は切々として。さゝめごとかくやらん。其四つの緒の音を留めし。潯陽の江と申すとも。是にはよもまさじ。面白の浦のけしきや。 シテ詞「又岩船の夜の空。月の天路に急ぐべし。暇申して人々よ。 ワキ詞「そも岩船のよりくるとは。御身いかなる人やらん。 シテ「げに人々はよも知らじ。天も納受喜見城の。宝をこゝに降さんとて。天の岩舟雲の波に。只今こゝに寄すべきなり。 地「今は何をかつゝむべき。其岩舟を漕ぎよせし。天の探女は我ぞかし。飛びかける天の岩舟尋ねてぞ。秋津島根は宮始め。住吉の松の緑の空の。嵐と共に失せにけり。〳〵。(中入) 地「久方の。天の探女か岩船を。とめし神代の幾久し。 シテ「我はこれ下界に住んで。神をうやまひ君を守る。秋津島根の龍神なり。 地「あるひは神代の嘉例をうつし。 シテ「又は治まる御代に出でゝ。 地「宝の御船を守護し奉り。 シテ「勅もをもしや勅もをもしや此岩船。 地「宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや〳〵。 シテ「引けや岩舶。 地「天の探女か。 シテ「波の腰鼓。 地「ていたうの拍子を。打つなりやさゞら波。経めぐりめぐりて住吉の松の風。吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の。〳〵。潮の満ちくる浪に浮んで。八大龍王は海上に飛行し。御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び出すや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで。栄ふる御代とぞなりにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第一輯』大和田建樹 著