空蟬
前 ワキ 旅僧 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 空蟬 地は 京都 季は 七月 ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。此度都に上り。寺社古跡をも一見せばやと思ひ候。 道行「身の憂きを。思ひ知らずは如何にせん。〳〵。厭ふながらも廻る世は。かゝる旅寐の浮枕。野に臥し山を分け過ぎて。いとゞ見つゝも急がるゝ。月の都に着きにけり。〳〵。 ワキ詞「我都に上りこゝを問へば。三条京極中川の宿りとやらん申し候。実にや昨日今日秋の始めの庭の面に。まだなつかしき水の心ばへ。田舎家だつ柴垣して。そこはかとなき虫の声。梢の蟬の声々まで。実にあはれなる気色かな。古言の思ひ出でられたるぞや。空蟬の葉に置く露の木隠れて。忍び〳〵に濡るゝ袖かなと詠じけんも。此所にての事なるべし。あら面白や候。 シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「唯今口ずさび給ふ言の葉ぐさの末の露。本の心を思し召さば。光る源氏の御歌をば。何とて詠じ給はざらん。 ワキ「いや是は唯所から。梢の蟬の声に催され。唯何となく思ひ出でたり。さて〳〵源氏の御歌は如何に。 シテ「空蟬の身をかへてげる木の本に。猶人がらのなつかしきかなと。詠じ給ひし御返事は。 ワキ「忍び〳〵に濡るゝ袖。さては空蟬の御歌よなふ。 シテ「中々なれやあはれ実に。こゝはゝかなき中川の。御方違の跡ぞかし。よく〳〵弔ひたまふべしと。 地「夕暮に。命かけたる蜻蛉の。〳〵。有りやあらずや問ふ人も。無き世なりけり。あはれと思し召されよ。実にや名残をば。庭の浅茅に留めて。物すごき夕べなりけり。〳〵。 地クリ「実にや葛城に。かゝる久米路の岩橋や。絶えにし跡は白雲の。遠き世語り申すべし。 シテサシ「光る源氏中将と申せし頃ほひかや。 地「彼中神のかごと故。此中川の御宿り。忍ぶの乱れ浅からず。 クセ「其夜や憂かりけん。何心なき空までも。見る人からの天の原。月の光りさへ。収まれる物から。影さやかなる有明の。 シテ「つれなさを。恨みもはてぬ東雲の。 地「取りあへぬまで驚かす。衣々の御名残。いかゞあるべき身の憂さを。歎くに飽かで明くる夜も。それのみならず空蟬の。もぬけも汐馴れし。いにしへを弔はせ給へや。 ロンギ地「昔語を聞くからに。いとゞ心も法の門。出づる名残を如何にせん。 シテ「旅人の。着るてふ笠のすげなくも。一村雨と振り捨てゝ。何方に日も暮れぬ。此宿りにも留めまほし。 地「星の逢瀬も程近き。御住家とは是やらん。 シテ「恥かしながら中川の。 地「宿りはこゝも。 シテ「軒旧りて。 地「数ならぬ伏屋に。生ふる名のみは箒木の。梢に鳴くは空蟬の。あるかと見れば其まゝ。道にあやなくなりにけり。〳〵。(中入) ワキ詞「さては此世別れし空蟬の。現に顕はれ給ひけるぞや。いざや御跡弔はんと。 歌「夜もすがら。思ふや法の苔衣。〳〵。袂に月の隈もなき。此妙経を読誦して。彼御跡を弔ふとかや。〳〵。 後ジテ「あら有難の御弔ひやな。此御経は有情悲情も。漏るゝ方なき妙典の。功力に引かれて空蟬の。うつゝなき世を忘草。菩提の種となりたるぞや。有難や。 ワキ「不思議やなまどろむとしもなき東雲に。夢か現か空蟬の。姿顕はし給ふ事。 シテ「唯是れ法の不思議なれば。 ワキ「即ち歌舞の菩薩の舞。 シテ「恥かしや。声も仏事をなす蟬の。 地「羽袖を返し舞ふとかや。(舞) シテ「山の端に。雲のよこぎる宵の間は。 地「出でゝも月の待たれこそすれ。 シテ「待たれし月も遠方の。 地「待たれし月も遠近人に。言葉をかはす法の縁も。隔てなき軒端の荻の。露うちはらふ風に乱るゝ。蟬の諸声こゑ〴〵に。鶏の音も明け行く空の。月の小莚敷妙の。風の手枕袖触れて。月のさむしろ風の手枕の。夢は覚めてぞ明けにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著