梅枝
世阿弥作 前 ワキ 身延山の僧 シテ 宿主の女 後 ワキ 前に同じ ワキヅレ 伴僧 シテ 富士の妻 地は 摂津 季は 秋 ワキ次第「捨てゝもめぐる世の中は。〳〵。心の隔てなりけり。 詞「是は甲斐の国身延山より出でたる沙門にて候。我縁の衆生を済度せんと。多年の望みにて候ふ程に。此度思ひ立ち廻国に趣き候。 道行「何処にも。住みは果つべき雲水の。〳〵。身は果知らぬ旅の空。月日程なく移り来て。所を問へば世を厭ふ。我衣手や住の江の。里にも早く着きにけり。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是は早津の国住吉に着きて候。あら笑止や。俄に村雨の降り候。是なる菴に宿を借らばやと思ひ候。如何に此屋の内へ案内申し候。 シテ「実にや松風草壁の宿に通ふといへども。正木の葛来る人もなく。心も澄める折節に。事問ふ人は誰やらん。 ワキ詞「是は無縁の沙門にて候。一夜の宿を御借し候へ。 シテ詞「実に〳〵出家の御事。一宿は利益なるべけれども。さながら傾く軒の草。埴生の小家のいぶせくて。何と御身を置かるべき。 ワキ「よし〳〵内はいぶせくとも。降りくる雨に立ち寄る方なし。唯さりとては借し給へ。 シテ「実にや雨降り日も呉竹の。一夜を明かさせ給へとて。 下歌地「早此方へと夕露の。葎の宿はうれたくとも。袖をかたしきて。御泊りあれや旅人。 上歌「西北に雲起りて。〳〵。東南に来る雨の足。早くも吹き晴れて。月にならん嬉しや。所は住吉の。松吹く風も心して。旅人の夢を覚ますなよ。〳〵。 ワキ詞「如何に主に申すべき事の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「是に飾りたる太鼓。同じく舞の衣裳の候ふ不審にこそ候へ。 シテ「実によく御不審候ふ物かな。是は人の形見にて候。是に付きあはれなる物語の候ふ語つて聞かせ申し候ふべし。 ワキ「さらば御物語り候へ。 シテ「昔し当国天王寺に。浅間といひし伶人あり。同じく此住吉にも富士と申す伶人有りしが。其頃内裏に管絃の役を争ひ。互に都に上りしに。富士此役を賜はるによつて。浅間安からずに思ひ。富士をあやまつて討たせぬ。其後富士が妻夫の別れを悲しみ。常は太鼓を打つて慰み候ひしが。それも終に空しくなりて候。逆縁ながら弔ひて給り候へ。 ワキ「かやうに委しく承り候ふは。其古への富士が妻の。ゆかりの人にてましますか。 シテ「いやとよそれは遥かの古へ。思ふも遠き世語の。ゆかりといふ事あるべからず。 ワキ「さらば何とて此物語。深き思ひの色に出でゝ。涙を流し給ふぞや。 シテ「なふ何れも女は思ひ深し。殊に恋慕の涙に沈むを。などかあはれと御覧ぜざらん。 ワキ「猶も不審は残るなり。形見の太鼓形見の衣。こゝには残し給ふらん。 シテ「主は昔になり行けども。太鼓は朽ちず苔むして。 ワキ「鳥驚かぬ。 シテ「此御代に。 地「住むもかひなき池水の。〳〵。忘れて年を経し物を。又立ち帰る執心を。助け給へといひ捨てゝ。かき消す如くに失せにけり。(中入) ワキ「それ仏法さま〴〵なりと申せども。法華は是れ最第一。 ツレ「三世の諸仏の出世の本懐。衆生成仏の直道なり。 ワキ「中んづく女人成仏疑ひあるべからず。 二人「一者不得作梵天王。二者帝釈三者魔王。四者転輪聖王。五者仏身云何女身。 地「速得成仏。何疑ひか荒磯海の。深き執心を。晴らして浮び給へや。或ひは若有聞法者。〳〵。無一不成仏と説き。一度此経を聞く人。成仏せずといふ事なし。唯頼め頼もしや。弔ふ灯の影よりも。化したる人の来りたり。夢か現か。見たりともなき姿かな。 ワキ「不思議やな見れば女性の姿なるが。舞の衣裳を着し。さながら夫の姿なり。 詞「さては有りつる富士が妻の。其幽霊にてましますか。 シテ「実にや碧玉の寒き蘆。錐嚢に脱すとは。今身の上に知られさぶらふぞや。さりながら妙なる法の受持に逢はゞ。変成男子の姿とは。などや御覧じ給はぬぞ。然らば御弔ひの力にて。 地「憂かりし身の昔を。懺悔に語り申さん。さるにても我ながら。よしなき恋路に侵されて。長く悪趣に堕しけるよ。さればにや。女心の乱髪。ゆひかひなくも恋衣の。妻の形見を戴き。此狩衣を着しつゝ。常には打ちし此太鼓の。寐もせず起きもせず。涙敷妙の枕上に。残る執心を晴らしつゝ。仏所に至るべし。うれしの今の教へや。 シテ「思ひ出でたる一念の。 地「起るは病ふとなりつゝ。継がざるは是薬なりと。古人の教へなれば。思はじ〳〵。恋忘草も住吉の。岸に生ふてふ花なれば。手折りやせまし我心。契り麻衣の片思ひ。執心を助け給へや。 ロンギ地「実に面白や同じくは。懺悔の舞をかなでゝ。愛着の心を捨て給へ。 シテ「いざ〳〵さらば妄執の。雲霧を払ふ夜の。月も半なり。夜半楽をかなでん。 地「心も共に住吉の。松のひまより詠むれば。 シテ「波もて結へる淡路潟。 地「沖も静かに青海の。 シテ「青海波の波返し。 地「かへすや袖の折を得て。軒端の梅に鶯の。 シテ「来鳴くや花の越殿楽。 地「うたへやうたへ。 シテ「梅が枝。 地「梅が枝にこそ。鶯は巣をくへ。風吹かば如何にせん。花に宿る鶯。(楽) シテ「面白や鶯の。 地「面白や鶯の。声に誘引せられて。花の陰に来りたり。我も御法に引き誘はれて。〳〵。今目前に立ち舞ふ舞の袖。是こそ女の夫を恋ふる。想夫恋の楽の鼓。現なの我有様やな。 シテ「思へば古へを。 地「思へば古へを。語るは猶も執心ぞと。申せば月も入り。音楽の音は松風にたぐへて。有りし姿は明けぐれに。面影ばかりや残るらん。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著