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雲林院

世阿弥作


ワキ 公光
シテ 老翁


ワキ 前に同じ
シテ 在原業平

地は 京都
季は 三月

ワキ次第「藤咲く松も紫の。〳〵。雲の林を尋ねん。
詞「是は津の国蘆屋の里に。公光と申す者にて候。我幼なかりし頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ処に。ある夜不思議なる霊夢を蒙りて候ふ程に。唯今都に上らばやと存じ候。
サシ「花の新に開くる日初陽うるほへり。鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる春の夜の。月の都に急ぐなり。
下歌「蘆屋の里を立ち出でゝ。我は東に趣けば。名残の月の西の海。汐の蛭子の浦遠し。〳〵。
上歌「松陰に。煙をかづく尼が崎。〳〵。暮れて見えたる漁火の。あたりを問へば難波津に。咲くや木の花冬ごもり。今は現に都路の。遠かりし。ほどは桜にまぎれある。雲の林に着きにけり。〳〵。
ワキ「遥に人家を見て花あればすなはち入るなればと。木陰に立ち寄り花を折れば。
シテ詞「誰そやう花折るは。今日は朝の霞消えしまゝに。夕べの空は春の夜の。殊に長閑に詠めやる。嵐の山は名にこそ聞け。誠の風は吹かぬに。花を散らすは鶯の。羽風に落つるか。松の響か人か。それかあらぬか木の下風か。あら心もとなと散らしつる花や。や。さればこそ人の候。落花狼藉の人そこのき給へ。
ワキ詞「それ花は乞ふも盗むも心有り。とても散るべき花な惜しみ給ひそ。
シテ「とても散るべき花なれども。花に憂きは嵐。それも花ばかりをこそ散らせ。御事は枝ながら手折れば。風よりも猶憂き人よ。
ワキ「何とて素性法師は。見てのみや人に語らん桜花。手毎に折りて家土産にせんとはよみけるぞ。
シテ「左様によむも有り又ある歌に。春風は花のあたりをよぎて吹け。心づからやうつろふと見ん。実にや春の夜の一時を千金に替へじとは。花に清香月に陰。千顆万顆の玉よりも。宝と思ふ此花を。折らせ申す事は候ふまじ。
ワキ「実に〳〵是は御理。花物いはぬ色なれば。人にて花を恋衣。
シテ詞「軽漾激して影唇を動かせば。我は申さずとも。
ワキ「花も惜しきと。
シテ「いひつべし。
地「実に枝を惜しむは又春の為め。手折るは見ぬ人の為め。惜しむも乞ふも情あり。二つの色の争ひ。柳桜をこきまぜて。都ぞ春の錦なる。〳〵。
シテ詞「いかに旅人。御身は何方より来り給ふぞ。
ワキ詞「是は津の国蘆屋の里に。公光と申す者にて候ふが。我幼かりし頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。ある夜の夢に。とある花の陰よりも。紅の袴召されたる女性。束帯給へる男。伊勢物語の草子を持ちたゝずみ給ふを。あたりに在りつる翁に問へば。あれこそ伊勢物語の根本。在中将業平。女性は二条の后。所は都北山陰。紫の雲の林と語ると見て夢覚めぬ。余りにあらたなる事にて候ふ程に。是まで参りて候。
シテ「さては御身の心を感じつゝ。伊勢物語を授けんとなり。今宵はこゝに臥し給ひ。別れし夢を待ち給へ。
ワキ「嬉しやさらば木の本に。袖を片敷き臥して見ん。
シテ詞「其花衣を重ねつゝ。又寝の夢を待ち給はゞ。などか験のなかるべき。
ワキ「かやうに委しく教へ給ふ。御身は如何なる人やらん。
シテ詞「其様年の古びやう。昔男となど知らぬ。
ワキ「さては業平にてましますか。
シテ「いや。
地「我名を何と夕ばえの。〳〵。花をし思ふ心故。木隠れの月に顕はれぬ。誠に昔を恋衣。一枝の花の陰に寝て。我有様を見給はゞ。其時不審を晴らさんと。夕べの空の一霞。思ほえずこそなりにけれ。〳〵。(中入)
ワキ歌「いざさらば。木陰の月に臥して見ん。〳〵。暮れなばなげの花衣。袖をかたしき臥しにけり。〳〵。
後ジテ「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。我身ひとつはもとの身にして。
ワキ「不思議やな雲の上人にほやかに。花にうつろひ顕はれ給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ詞「今は何をか包むべき。昔男のいにしへを。語らん為に来りたり。
ワキ「さらば夢中に伊勢物語の。其品々を語り給へ。
シテ詞「いで〳〵さらば語らんと。花の嵐も声添へて。
ワキ「其品々を。
シテ「語りけり。
シテクリ「そも〳〵此物語は。いかなる人の何事によつて。
地「思ひの露を染めけるぞと。言ひけん事も理なり。
シテサシ「まづは弘徽殿の細殿に。人目を深く忍び。
地「心の下簾の。つれ〴〵と人はたゝずめば。我も花に心を染みて。共にあくがれ立ち出づる。
クセ「二月や。まだ宵なれど月は入り。我等は出づる恋路かな。そも〳〵日の本の。内に名所と云ふ事は。我大内にあり。彼遍昭が連ねし。花の散り積る。芥川を打ち渡り。思ひ知らずも迷ひ行く。かづける衣は紅葉襲。緋の袴踏みしだき。誘ひ出づるやまめ男。紫の。一本ゆひの藤袴。しをるゝ裾をかい取つて。
シテ「信濃路や。
地「園原しげる木賊色の。狩衣の袂を。冠の巾子にうちかづき。忍び出づるや二月の。黄昏月もはや入りて。いとゞ朧夜に。降るは春雨か。落つるは涙かと。袖うち払ひ裾を取り。しを〳〵すご〳〵と。たどり〳〵も迷ひ行く。
シテ「思ひ出でたり夜遊の曲。
地「返す真袖を月や知る。(序の舞)
地「夜遊の舞楽も時移れば。〳〵。名残の月も山藍の羽袖。かへすや夢の黄楊の枕。此物語り語るとも尽きじ。
シテ「松の葉の散り失せず。
地「松の葉の散り失せず。末の世までも情知る。言の葉草のかりそめに。かく顕はせるいにしへの。伊勢物語かたる夜もすがら。覚むる夢となりにけりや。覚むる夢となりにけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第四輯』大和田建樹 著

「雲林院」には世阿弥自筆能本があり、そちらは現行の「雲林院」と比べて前場はさほど変わらないものの、後場の内容が大きく違う古作として知られています。
後ジテとして藤原基経(二条后の兄)の霊が登場し、業平に盗み出された二条后を奪い返す顛末を中心に、妹への妄執が描かれます。
公光に対しては、業平が后を隠した武蔵塚は、東の武蔵野ではなく本当は都の春日野にあるのだなどという伊勢物語の秘事を伝授します。

以下の書誌で詞章を読むことができます。

  • 『日本古典文学大系 第40 謡曲集 上』横道万里雄、表章 校注 岩波書店 1960年 147~156ページ

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