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江口

禅竹作


ワキ 旅僧
シテ 里女


ワキ 前に同じ
シテ 江口の君
ツレ 遊女

地は 摂津
季は 秋

ワキ次第「月は昔の友ならば。〳〵。世の外いづくならまし。
ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我いまだ津の国天王寺に参らず候ふ程に。此度思ひ立ち天王寺に参らばやと思ひ候。
道行「都をば。まだ夜深きに旅立ちて。〳〵。淀の川舟行末は。鵜殿の蘆のほの見えし。松の煙の浪よする。江口の里に着きにけり。〳〵。
ワキサシ「さては是なるは江口の君の旧跡かや。痛はしや其身は土中に埋むといへども。名はとゞまりて今までも。昔語りの旧跡を。今見る事のあはれさよ。
詞「実にや西行法師此所にて。一夜の宿を借りけるに。主の心なかりしかば。世の中を厭ふまでこそ難からめ。仮の宿りを惜む君かなと詠じけんも。此所にての事なるべし。あら痛はしや候。
シテ詞「なふ〳〵あれなる御僧。今の歌をば何と思ひよりて口ずさび給ひ候ふぞ。
ワキ詞「不思議やな人家も見えぬ方よりも。女性一人来りつゝ。今の詠歌の口ずさびを。如何にと問はせ給ふ事。そも何故に尋ね給ふぞ。
シテ「忘れて年を経し物を。又思ひ染む言の葉の。草の陰野の露の世を。厭ふまでこそ難からめ。仮の宿りを惜しむとの。其言の葉も恥かしければ。さのみは惜しみ参らせざりし。其理をも申さん為に。是まで顕はれ出でたるなり。
ワキ「心得ず仮の宿りを惜しむ君かなと。西行法師が詠ぜし跡を。唯何となく弔ふ所に。さのみは惜しまざりにしと。ことわり給ふ御身はさて。如何なる人にてましますぞ。
シテ「いやさればこそ惜しまぬよしの御返事を。申しゝ歌をば何とてか。詠じもせさせ給はざるらん。
ワキ「実に其返歌の言の葉は世を厭ふ。
シテ「人とし聞けば仮の宿に。
詞「心留むなと思ふばかりぞ。心とむなと捨人を。諌め申せば女の宿りに。とめ参らせぬも理ならずや。
ワキ「実に理なり西行も。仮の宿りを捨人といひ。
シテ「此方も名におふ色好の。家にはさしも埋木の。人しれぬ事のみ多き宿に。
ワキ「心とむなと詠じ給ふは。
シテ「捨人を思ふ心なるを。
ワキ「唯惜しむとの。
シテ「言の葉は。
地「惜しむこそ。惜しまぬ仮の宿なるを。〳〵。などや惜しむと夕波の。かへらぬ古は今とても。捨人の世語りに。心な留め給ひそ。
ロンギ地「実にや浮世の物語り。聞けば姿も黄昏に。かげろふ人は如何ならん。
シテ「黄昏に。たゝずむ影はほの〴〵と。見えがくれなる河隈に。江口の流れの。君とや見えん恥かしや。
地「さては疑ひ荒礒の。波と消えにし跡なれや。
シテ「仮に住み来し我宿の。
地「梅の立枝や見えつらん。
シテ「思ひの外に。
地「君が来ませるや。一樹の陰にや宿りけん。又は一河の流れの水。汲みても知し召されよや。江口の君の幽霊ぞと。声ばかりして失せにけり。〳〵。(中入)
ワキ詞「さては江口の君の幽霊仮に顕はれ。我に言葉をかはしけるぞや。いざ弔ひて浮べんと。
歌「言ひもあへねば不思議やな。〳〵。月澄み渡る河水に。遊女のうたふ舟遊び。月に見えたる不思議さよ。〳〵。
地「河船を。とめて逢瀬の波枕。〳〵。浮世の夢を見習はしの。驚かぬ身のはかなさよ。佐用姫が松浦潟。かたしく袖の涙の。唐舟の名残なり。また宇治の橋姫も。訪はんともせぬ人を待つも。身の上とあはれなり。よしや吉野の。花も雪も雲も波も。あはれ世にあはゞや。
ワキ「ふしぎやな月澄み渡る水の面に。遊女のあまたうたふ謡。色めきあへる人影は。そも誰人の舟やらん。
シテ「何此舟を誰が船とは。恥かしながら古の。江口の君の川逍遥の。月の夜舟を御覧ぜよ。
ワキ「そもや江口の遊女とは。それは去りにし古の。
シテ詞「いや古とは。御覧ぜよ月は昔にかはらめや。
ツレ「我等もかやうに見え来るを。いにしへ人とは現なや。
シテ「よし〳〵何かと宣ふとも。
ツレ「いはじや聞かじ。
シテ「むつかしや。
二人「秋の水。漲り落ちて去る船の。
シテ「月も影さす棹の歌。
地「歌へや歌へうたかたの。あはれ昔の恋しさを。今も遊女の船遊び。世を渡る一節を。歌ひていざや遊ばん。
地クリ「夫れ十二因縁の流転は車の庭に廻るが如し。
シテ「鳥の林に遊ぶに似たり。
地「前生又前生。
シテ「曽て生々の前を知らず。
地「来世なほ来世。更に世々の終りをわきまふる事なし。
シテサシ「或は人中天上の善果を受くといへども。
地「顚倒迷妄して未だ解脱の種を植ゑず。
シテ「或は三途八難の悪趣に堕して。
地「患にさへられて。既に発心のなかだちを失ふ。
シテ「然るに我等たまたま受けがたき人身を受けたりといへども。
地「罪業深き身と生れ。殊にためし少なき河竹の。流れの女となる。前の世の報いまで。思ひやるこそ悲しけれ。
クセ「紅花の春の朝。紅錦繍の山。粧ひをなすと見えしも。夕の風に誘はれ。紅葉の秋の夕。黄纐纈の林。色を含むといへども。朝の霜にうつろふ。松風羅月に言葉をかはす賓客も。去つて来る事なし。翠帳紅閨に。枕をならべし妹背も。いつの間にかは隔つらん。凡そ心なき草木。情ある人倫。いづれあはれを遁るべき。かくは思ひ知りながら。
シテ「ある時は色に染み。貪着の思ひ浅からず。
地「又ある時は声を聞き。愛執の心いと深き。心に思ひ口に言ふ。妄舌の縁となる物を。実にや皆人は。六塵の境に迷ひ。六根の罪を作る事も。見る事聞く事に。迷ふ心なるべし。
地「おもしろや。(序の舞)
シテ「実相無漏の大海に。五塵六欲の風は吹かねども。
地「随縁真如の波の。立たぬ日もなし。〳〵。
シテ「波の立居も何故ぞ。仮なる宿に心とむる故。
地「心とめずは浮世もあらじ。
シテ「人をも慕はじ。
地「待つ暮もなく。
シテ「別路も嵐吹く。
地「花よ紅葉よ月雪の古言も。あらよしなや。
シテ「思へば仮の宿。
地「思へば仮の宿に。心とむなと人をだに。諌めし我なり。是までなりや帰るとて。すなはち普賢菩薩と顕はれ。船は白象となりつゝ。光とゝもに白妙の。白雲に打ち乗りて。西の空に行き給ふ。有難くぞ覚ゆる。有難くこそは覚ゆれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

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