冊子型のPDFファイルをダウンロードしていただけます。
プリントアウトの上、中央を山折りにし、端を綴じてご活用ください。

 

 

 

 

江島

観世弥次郎作


ワキ 勅使
シテ 漁翁
ツレ 漁夫


ワキ 前に同じ。
天女 弁財天女
シテ 五頭龍王

地は 相模
季は 四月

ワキ次第「治まる折を江の島や。〳〵。動かぬ国ぞ久しき。
詞「そも〳〵是は欽明天皇に仕へ奉る臣下なり。さても相模の国江野と云ふ浦に。去んぬる卯月十日あまりに。不思議の奇瑞さま〴〵あつて。海上に一の島涌出す。即ち江野になぞらへて是を江の島と号す。島の雲上に天女顕はれ給ふ。是れ弁財天影向の地にて。福寿円満の霊地なれば。急ぎ見て参れとの勅に任せ。唯今東海道に下向仕り候。
道行「東路も。其方の空に行く雲の。〳〵。影も涼しき鳰の海。遥けき旅を駿河なる。富士の高嶺の月影も。いく山々に移り来し。相模の国に着きにけり。〳〵。
ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。是は早相模の国江の島に着きて候。此浦の者を相待ち。事の由をも窺はゞやと存じ候。
シテ、ツレ一声「島つ鳥。浮海松涼し波の上。有明残る朝ぼらけ。
ツレ「波もて立つや夏衣。
二人「浦ふれ渡る沖つ風。
シテサシ「それ江の島は崑崙の奇を移し。五丈の垣重なほけれども。
二人「蓬萊海の勢を伝へたる。三壺の形あらたなり。秦皇徐市を疑はゞ。りさんぢよの春の風。なほさりがてらに渡らめや。漢帝せいしやうを用ひずは。覇陵原の秋の月。心凄くは澄まざらまし。誠に人間の妙奇仙境の秘跡なり。
歌「一度も。歩みを運ぶともがらは。三千界の内にまづ。無量福の宝を得。一期生の後に早く。再び天の位に至る。かゝる誓ひの海山も。猶万代の末かけて。靡き従ふ此国の。尽きせぬ御代は有難や。〳〵。
ワキ詞「我江の島に上り。山海の致景を詠め。事の由をうかゞふ所に。海人あまた来れり。如何に翁。御事は此浦の者か。
シテ詞「さん候此浦の者にて候ふが。毎日此島に上り。山上山下岩窟社々を清め申す者にて候。さて御身は何処よりの御参詣にて候ふぞ。
ワキ「是は欽明天皇に仕へ奉る臣下なるが。此島涌出の由聞し召され。事の子細を悉く尋ね見て参れとの宣旨に任せ。是まで勅使を下さるゝなり。委しく子細を申し候へ。
シテ「さてはかたじけなくも帝よりの勅使にてましますぞや。そも〳〵此島は。欽明天皇十三年卯月十二日戌の刻より。同じく二十三日辰の刻に至るまで。江野南海湖水湊の口に雲霞暗く蔽ひて。天水紛紜たり。大地震動する事十日にあまれり。とばかり有りて天女雲上に顕はれ。童子左右に侍り。もろ〳〵の天衆龍神水火雷電。山神鬼魅夜叉羅刹雲上より磐石を下し。海底より塊砂を噴き出だす。
ツレ「かい〳〵たる雷の光りせいくを万天の間に飛ばし。
シテ「霹靂帛を裂くが如し。波浪金を湧かすに似たり。
ツレ「宕巌多く浮べ出だし。夜叉鬼神島を作る。
シテ「或ひは銅杵を持つて打ち砕き。
ツレ「或ひは鉄杖を持つて裂き破る。
シテ「又は二つの岩を押し合はせ。
ツレ「又は一つの石をそばだてたり。
シテ「とり〴〵に島を作り給へば。梵天帝釈四大天王。上界の天人下界の龍神。
ツレ「残らずこゝに顕はれ給ひ。
二人「おの〳〵是を衛護し給ふ。其後藹雲をさまりて。海上に一つの島をなせり。即ち江野になぞらへて。江野島と是を申すなり。
ワキ「謂を聞けば有難や。即ち是は明君の。直なる御代のしるしを見せて。かゝる奇特を拝む事よと。いよ〳〵御影を仰ぐなり。
詞「さて此島は天部の影向。又は如何なる御神の。鎮守と顕はれ給ふらん。
シテ詞「中々の事此島に。各諸神まします中にも。龍口の明神は。天部と夫婦の御神にて。衆生済度の御方便。あがめても猶余りあり。
ワキ「実に有難やかくばかり。深き恵みの海山も。猶万歳を呼ばふなる。
シテ「声か松吹く風の音の。
ワキ「涼しき巌に寄る波も。
シテ「治まる国のしるしを見せて。
ワキ「豊かに住める。
シテ「此時を。
地「万代の。始と今日を祈り置き。始めと今日を祈りおきて。今行く末も此島の。誓ひは尽きぬ無量億の。楽しみの数々を。受け継ぐ国ぞ久しき。善神は一切の福を授け。悪神は万里の。禍をはらふ浦風も。天部の誓ひなるとかや。頼め猶隔てなき。真如の玉も曇らじ。
ワキ詞「猶々江の島に於てめでたき子細さま〴〵有るべし。残さず申し候へ。
地クリ「そも〳〵江の島と云つぱ。其めぐれる事三十余町。其高き事数十余丈なり。
シテサシ「水は山の影をふくみ。山は水の心に任せたり。
地「堧中の砂清浅たり。白雲の破るゝ所に。洞門開けて翠屛顕はれたり。岩窓の奥遥かに入つて。峨々たる巌の間より。落ち来る水は西天の。無熱池の池水なるとかや。
シテ「禅定無漏の仙人は。
地「此地を占めて住家とし。弥陀有縁の教主は。此島に来つて生を導く。
シテ「二世安楽の此島に。
地「誰か頼みをかけざるべき。
クセ「こゝに又。いにしへ武蔵相模の境に。鎌倉海月の間に。深沢といふ湖あり。彼湖に大蛇住めり。其身一つにして其頭五つあり。隆準の鼻胡髥の腮。眼に白日をつなぬき。身に黒雲をまつへり。然れば神武天皇より。垂仁天皇の御宇までは。十一代の帝祚を経。七百余歳の年祀を経て。国中に満ちて人を取る。
シテ「景行天皇の御宇に至り。
地「龍悪いよ〳〵盛んなれば。人皆石窟に隠れ住み。涕哭の声限りなし。時に天部は龍に向ひ。汝が悪心を翻し。殺生をとゞめ。此国の守護神とならば。夫婦の語らひを我なすべしと。堅く誓約し給へば。龍王も是に応じつゝ。今より殺害をとゞめて。善心を思ひ龍の口の。明神となり給ひ。国土を守護し給ふなり。
ロンギ地「はや時移る夕雲の。〳〵。斯かる神秘も大方の。浦人いかで木綿四手の。神の告かや有難や。
シテ「中々なれや大君の。御言畏み勅に今ぞ。応ずるしるしを顕はさん。夜すがらこゝに待ち給へ。
地「勅に応ぜんしるしとは。そも老人は誰やらん。
シテ「誰とはさてもおろかなり。我は五頭龍。
地「今は又。天部の夫婦の神となりし。龍口の明神とは。老人を見るべし。今宵の月に天部の御姿。我姿をも顕はすべしと。夕波に立ちまぎれつゝ。失せ給ふこそあらたなれ。〳〵。(中入)
ワキ「岐伯が絶技を先に揚げ。張儀が英声を後に馳す。是れ聡明勇進弁財天の。
地「無量無辺不可思議の功徳を。さま〴〵顕はしおはします。
天女「月も照り添ふ如意の宝珠の。光りを誰か仰がざる。
地「仰げなほ。〳〵。意の如しと聞く時は。
天女「今此君の。それと御影に逢ひに逢ふ。
地「卞和が玉も何ならず。彼如意宝珠を君に捧げんと。光りもかゝやく御殿の扉。左右に開けて十五童子。天部の御姿顕はれたり。
地「衆生済度の其御方便。衆生済度の其御方便も。先づ福寿円満の願ひを叶へ。現寿無比楽後生清浄と。曇らぬ宝珠を君に捧げんと。勅使に是を授け給ひ。舞楽を奏し拍子を揃へ。羽袖を返して舞ひ給ふ。
地「天人聖衆菩薩の舞も。〳〵。かくやと思ひ白波の。立ち来る沖に雲暗がつて。はやて吹き立て逆巻く潮は。五頭龍王の出現かや。
後ジテ「我昔は深沢の池に住んで。五頭龍王と顕はれ。今は国土の守護神となる。龍の口の明神なり。
地「聞きしに替はらぬ因位の形。〳〵。
シテ「頭は五頭龍。
地「胡髥の腮。眼に白日をつなぬき。其身に黒雲をまつへり。苔むす松も野べ伏す巌の。峨々たる上にぞ顕はれたる。
シテ「神仏水波の隔てなり。
地「神仏水波の隔てなれば。同一体の。利益もさま〴〵の。弁財天部は威光を顕はし。明神もろともに百千劫の。齢を守らんと約諾堅き。岩間を伝ひ。涼み取るてふ緑の海に。飛行し給へば。磯うつ波も龍の口の。明神忽ち威を振ひ雲を吹き。嵐にかゝやく眼の光りは。天地に満ち満てり。其時天部は童子を伴なひ。紫雲の上に顕はれ給へば。明神立ち来る黒雲に乗じ。光りを放つて島根を廻ぐり。めぐりめぐるや暫しが程は。とり〴〵姿を雲中に顕はし。とり〴〵姿を雲中に顕はすも。実に有難き影向かな。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著

このコンテンツは国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物により作成されています。
商用・非商用問わず、どなたでも自由にご利用いただけます。
当方へのご連絡も必要ありません。
コンテンツの取り扱いについては、国立国会図書館デジタルコレクションにおいて「インターネット公開(保護期間満了)」の記載のある書物の利用規約に準じます。
詳しくは、国立国会図書館のホームページをご覧ください。
国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載