箙 古名 箙梅
世阿弥作 前 ワキ 西国の僧 シテ 里人 後 ワキ 前に同じ シテ 梶原景季 地は 摂津 季は 二月 ワキ次第「春を心のしるべにて。〳〵。憂からぬ旅に出でうよ。 詞「是は西国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。此度都に上り洛陽一見と心ざし候。 道行「旅心。筑紫の海の船出して。〳〵。八重の潮路を遥々と。分けこし方の雲の波。煙も見えし松原の。里の名問へば須磨の浦。生田の河に着きにけり。〳〵。 シテ次第「来る年の矢の生田川。流れて早き月日かな。 サシ「飛花落葉の無常は又。常住不滅の栄をなし。一色一香の艶情は。無非中道の眼に応ず。人間個々艶情の観念。なほ以て至り難し。あら定めなの身命やな。 下歌「人間有為の転変は。眼子の内に顕はれて。 上歌「閻浮に帰る妄執の。〳〵。其生死の海なれや。生田の川の幾世まで。夢の巷に迷ふらん。よしとても身の行くへ。定めありとても終には。夢の直路に帰らん。〳〵。 ワキ詞「如何に申すべき事の候。是なる梅は名木にて候ふか。 シテ「さん候是は箙の梅と申し候。 ワキ「あらおもしろや箙の梅とは。いつの代よりの名木にて候ふぞ。 シテ「いや名木程の事は候はねども。唯私に申しならはしたる異名にて候。 ワキ「よし〳〵私に名づけたる異名なりとも。委しく御物語り候へ。 シテ「そも〳〵此生田の森は。平家十万余騎の追手なりしに。源氏の方に梶原平三景時。同じき源太景季。色ことなる梅花の有りしを。一枝折つて箙にさす。此花すなはち笠印となりて。気色あらはに著く。功名人に勝れしかば。景季かへつて此花を礼し。すなはち八幡の神木と敬せしより以来。名将の古跡の花なればとて。箙の梅とは申すなり。 ワキ「実にや名将の古跡と云ひ名木と云ひ。名残尽きせぬ年々に。 シテ詞「降るは程なき春雨の。古きに帰る名を聞けば。 ワキ「其景季の盛りなりし。 シテ「若木の花の白真弓。 ワキ「箙の梅の。 シテ「今までも。 地「名を留めし。主は花の景季の。〳〵。末の世かけて生田川の。身を捨てゝこそ。名は久しけれ武士の。やたけ心の花に引く。弓筆の名こそ妙なれや。弓筆の名こそ妙なれ。 地クリ「さる程に平家は去年播磨の室山。備中の水島二箇度の合戦に打ち勝つて。山陽道南海道。合はせて十四箇国の兵。都合十万余騎。津の国一の谷にぞ籠りける。 シテサシ「東は生田の森。西は一の谷を限つて。其間三里が程は満ち〳〵たり。 地「浦々には数千艘の船を浮べ。陸には赤旗いくらも立てならべ。春風に靡き天に翻る有様。猛火雲を焼くかと見えたり。 シテ「総じて此城の前は海後は山。 地「左は須磨右は明石の。とよりかくより行きかふ舟の。共音の千鳥も声々なり。 クセ「時しも如月。上旬の空の事なれば。須磨の若木の桜も。まだ咲きかぬる薄雪の。さえかへる波こゝもとに。生田のおのづから盛りを得て。かつ色見する梅が枝。一花開けては天下の春よと。軍の門出を祝ふ。心の花もさきかけぬ。さる程に味方の勢。六万余騎を二手に分けて。範頼義経の追手搦手の。海山かけて須磨の浦。四方を囲みて押し寄する。 シテ「魚鱗鶴翼もかくばかり。 地「後の山松にむれゐるは。残りの雪の白妙に。ねぐらを立たん真鶴の。翅を連ぬる其気色。雲にたぐへて夥し。浦には海人様々の。漁父の船影数見えて。漁たく火もかげろふや。嵐も波も須磨の浦。野にも山にも漕ぎ寄する。兵船はさながら。天の鳥船もかくやらん。 ロンギ地「はや夕ばえの梅の花。月になり行く仮枕。一夜の宿を借し給へ。 シテ「我は宿りも白雪の。花の主と思し召さば。下臥に待ち給へ。 地「花の主と思へとは。御身如何なる人やらん。 シテ「今は何をか包むべき。我は此世に亡き影の。 地「跡弔はれんと夕草の。 シテ「其景季が幽霊なり。 地「御身他生の縁ありて。一樹の陰の花の縁に。鶯宿梅の木の本に。宿らせ給へ我は又。世を鶯のねぐらは。此花よとて失せにけり。此花よとてぞ失せにける。(中入) ワキ歌「うば玉の。夜の衣を返しつゝ。〳〵。更け行くまゝに生田川。水音も澄む夜もすがら。花の木陰に臥しにけり。〳〵。 後ジテ「魂は陽に帰り魄は陰に残る。執心却来の修羅の妄執。去つて生田の名にしおへり。 地「血は涿鹿の河となり。 シテ「紅波楯を流しつゝ。 地「白刄骨を砕く苦しみ。月をも日をも手に取る影かや。長夜のやみ〳〵と眼もくらみ。心も乱るゝ修羅道の苦しみ。御覧ぜよ。 ワキ「不思議やな其さまいまだ若武者の。胡籙に梅花の枝をさし。さも花やかに見え給ふは。如何なる人にてましますぞ。 シテ「今は何をか包むべき。是は源太景季。他生の縁の一樹の陰に。夢中の対面向顔をなす。御身貴き人なれば。法味を得んと魄霊の。魂に移りて来りたり。跡弔ひ給へといはんとすれば。又嗔恚の敵の攻め。あれ御覧ぜよ御聖。 ワキ「実に〳〵見れば恐ろしや。剣は雨と降りかゝつて。 シテ「天地をかへす如くにて。 ワキ「山も震動。 シテ「海も鳴り。 ワキ「雷火も乱れ。 シテ「悪風の。 地「紅焰の旗を靡かし。紅焰の旗を靡かして。閻浮に帰る生田川の。波を立て水を返し。山里海川も。皆修羅道の巷となりぬ。こは如何にあさましや。 シテ「暫く心を静めて見れば。 地「心を静めて見れば。所は生田なりけり。時も昔の春の。梅の花盛りなり。一枝手折りて箙にさせば。もとよりみやびたる若武者に。相逢ふ若木の花鬘。懸くれば箙の花も源太も。我さきかけんさきかけんとの。心の花も梅も。散りかゝつて面白や。敵の兵之を見て。あつぱれ敵よ逃がすなとて。八騎が中に取り籠めらるれば。 シテ「兜も打ち落されて。 地「大童の姿となつて。 シテ「郎等三騎に後を合はせ。 地「向ふ者をば。 シテ「拝み打ち。 地「又廻り逢へば。 シテ「車切。 地「蜘蛛手かく縄十文字。鶴翼飛行の秘術を尽すと。見えつる内に夢覚めて。しら〳〵と夜も明くれば。是までなりや旅人よ。暇申して花は根に。鳥は古巣に帰る夢の。鳥は古巣に帰るなり。よく〳〵弔ひて給び給へ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第六輯』大和田建樹 著