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絵馬


ワキ 勅使
シテ 里の翁
ツレ 里の嫗


シテ 天照大神
ツレ(天女) 天鈿女命
ツレ(力神) 手力雄命

地は 伊勢
季は 十二月

ワキ次第「治めしまゝに世を守る。〳〵。伊勢の宮居に参らん。
詞「そも〳〵是は大炊の帝に仕へ奉る臣下なり。さても我君伊勢太神宮を信じ給ひ。数の御宝を捧げ給ふ。其勅を蒙り。唯今伊勢参宮仕り候。
道行「風は上なる松本や。〳〵。雲雀落ちくる粟津野の。草の茂みを分け越して。瀬田の長橋うち渡り。野路篠原の草枕。夢も一夜の旅寐かな。〳〵。
詞「急ぎ候ふ程に。是は早勢州斎宮に着きて候。今夜は節分にて此所に絵馬を掛くると申し候ふ間。今夜は此所に逗留し。絵馬を掛くる者を見ばやと存じ候。
シテ、ツレ一声「新玉の。春に心を若草の。神も久しき恵みかな。
ツレ「霞も雲も立つ春を。
二人「去年とやいはん年の暮。
シテサシ「それ馬を華山の野に放ち。牛を桃林に繫ぐ事。
二人「皆聖人の事業かな。それは賢き世の習ひ。時に引かれて四方の海の。浜の真砂を数へても。君が千年のある数を。喩へても猶有難や。
下歌「千早振る。神代を聞けば久堅の。
上歌「天つ日嗣の代々ふりて。〳〵。人皇末代の子孫まで。ありし恵みを受け継ぎて。治まる御代の我等まで。及ばぬ君を仰ぎつゝ。夜昼仕へ奉る。〳〵。
ワキ詞「如何に是なる人々に尋ぬべき事の候。
シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「今夜は此所に絵馬を掛くると申し候ふは誠にて候ふか。
シテ「さん候即ち我等が絵馬を掛け候ふよ。
ワキ「それは何の謂に依つて掛けられ候ふぞ。
シテ「是は唯一切衆生の愚痴無智なるをかたどり。馬の毛により明年の日を相し。又雨しげき年をも心得べき為めにて候。
ワキ「さて〳〵今夜は如何なる絵馬を掛け。明年の日を相し給ふ。
ツレ「誓ひはいづれも等しけれども。まづ雨露の恵みを受け。民の心も勇みある。夜道の黒の絵馬を掛け。国土豊かになすべきなり。
シテ詞「暫く候。耕作の道の直なるをこそ。神慮も悦び給ふべけれ。まづ此尉が絵馬を掛け。民を悦ばせばやと思ひ候。
ツレ「左様に謂を宣はゞ。此方も更に劣るまじ。力をも入れずして。天地を動かし目に見ぬ鬼神の。猛き心を和ぐる。歌は八雲を先として。天ぎる雪のなべて降る。是等はいかで嫌ふべき。
シテ「かくしも互に争はゞ。隙行く駒の道行かじ。いざや二つの絵馬を掛けて。万民楽しむ世とならん。
ツレ「実にいはれたり此程は。一つ掛けたる絵馬なれども。
シテ「今年始めて二つ掛けて。雨をも降らし。
ツレ「日をも待ちて。
シテ「人民快楽の。
ツレ「御恵みを。
地「掛まくも忝なや。是をぞ頼む神垣に。絵馬は掛けたりや。国土豊かになさうよ。賀茂の御あれのひをりの日。〳〵。是を物見に御随身。色めく紙の四手つけて。駆けならべたる駒くらべ。掛けてやさしく聞えしは。松風の上の藤波。尾上の花に咲き添へて。棚引く白雲。又掛けて色をますなり。
クセ「僧正遍昭は。歌の様は得たれども。まこと少なし喩へば。絵にかける遊女の。姿にめでゝ徒に。心を動かすは浅緑。糸よりかけて繫ぐ駒は。二道掛けて中々。恨みしは恋路の空情。逢ふさへ夢の手枕。
シテ「忍ぶ今宵の顕はれて。
地「言葉をかはす此上は。何をか包むべき。我等は伊勢の二柱。夫婦と現じ立ち出づる。信ずべし信ぜば。疑ひ波の川竹の。夜も明け行かば内外にて。待ち得てまみえ申さんと。夜半にまぎれて失せにけり。〳〵。(中入)
地「雲は万里に治まりて。月読の明神の御影の。尊容を照らし出で給ふ。
後ジテ「我は日本秋津島の大棟梁。地神五代の孫。天照太神。
地「和光利物の御裳濯川の。水を蹴立つる波の如し。されども誓ひは。虚空に満ち来る五色の雲も。輝き出づる日神の御姿。有難や。
シテ「所は斎宮の名に旧りし。
地「所は斎宮の名に旧りし。神垣しどろに木綿四手の。あらはに神体顕はれ給ふ。有難や。(中の舞)
シテ「昔し天の岩戸に閉ぢ籠りて。
地「天の岩戸に閉ぢ籠りて。悪神を懲らしめ奉らんとて。日月二つの御影を隠し。常闇の世のさていつまでか。あらぶる神々是を歎きて。いかにも御心取るや榊葉の。青和幣白和幣。いろ〳〵さま〴〵に。うたふ神楽の韓神催馬楽。千早振る。(天女神楽)
シテ「おもしろや。
地「おもてしろやと。覚えず岩戸を少し開いて感じ給へば。いつまで岩戸を手力雄の尊は。引きあけ御衣の袂にすがり。引き連れ顕はれ出で給ふ有様。又めづらしき神遊びの。面白かりしを思し召し忘れず。高天の原に神とゞまつて。天地二度開け治まり。国土も豊かに月日の光りの。長閑けき春こそ久しけれ。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第八輯』大和田建樹 著

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