💡 本説を読む 『十訓抄』第一「可定心操振舞事」二六から、「雲の上は 有りし昔に かはらねど 見し玉だれの 内〔や/ぞ〕ゆかしき」の由緒はこちら

 

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鸚鵡小町

ワキ 勅使
シテ 小野小町

地は 近江
季は 三月

ワキ詞「是は陽成院に仕へ奉る新大納言行家にて候。さても我君敷島の道に御心を懸けられ。普く歌を撰ぜられ候へども。叡慮に叶ふ歌なし。こゝに出羽の国小野の良実が娘に小野の小町。彼はならびなき歌の上手にて候ふが。今は百年の姥となつて。関寺辺に在る由聞し召し及ばれ。帝より御憐みの御歌を下され候。其返歌により。重ねて題を下すべきとの宣旨に任せ。唯今関寺辺小野の小町が方へと急ぎ候。
シテ一声「身は一人。我は誰をか松坂や。四の宮河原四つの辻。いつ又六つの街ならん。
サシ「昔は芙蓉の花たりし身なれども。今は藜藋の草となる。顔ばせは憔悴と衰へ。膚は凍梨の梨の如し。杖つくならでは力もなし。人を恨み身をかこち。泣いつ笑うつ安からねば。物狂ひと人は言ふ。
歌「さりとては。捨てぬ命の身に添ひて。〳〵。面影につくも髪。斯からざりせばかゝらじと。昔を恋ふる忍寐の。夢は寐覚の長き夜を。飽きはてたりな我心。〳〵。
ワキ詞「如何に是なるは小町にてあるか。
シテ詞「見奉れば雲の上人にてましますか。小町と承り候ふかや何事にて候ふぞ。
ワキ「さて此程は何くを住家と定めけるぞ。
シテ「誰留むるとはなけれども。唯関寺辺に日数を送り候。
ワキ「実に〳〵関寺は。さすがに都遠からで。閑居には面白き所なり。
シテ「前には牛馬の通路有つて。貴きも行き賤しきも過ぐ。
ワキ「後には霊験の山高うして。
シテ「しかも道もなく。
ワキ「春は。
シテ「春霞。
地「立ち出で見れば深山辺の。〳〵。梢にかゝる白雲は。花かと見えて面白や。松風も匂ひ枕に花散りて。それとばかりに白雲の。色香おもしろき気色かな。北に出づれば湖の。志賀辛崎の一つ松は。身の類ひなる物を。東に向へば有難や。石山の観世音。瀬田の長橋は狂人の。つれなき命の。かゝるためしなるべし。
シテ詞「かくて都の恋しき時は。柴の菴に暫し留むべき友もなければ。便梨の杖にすがり。都路に出でゝものを乞ふ。乞ひ得ぬ時は涙の関寺に帰り候。
ワキ詞「如何に小町。さて今も歌をよみ候ふべきか。
シテ「我いにしへ百家仙洞の交はりたりし時こそ。事によそへて歌をもよみしが。今は花薄穂に出で初めて。霜のかゝれる有様にて。浮世にながらふるばかりにて候。
ワキ「実に尤道理なり。帝より御憐みの御歌を下されて候ふ是々見候へ。
シテ「何と帝より御憐みの御歌を下されたると候ふや。あら有難や候。老眼と申し文字もさだかに見え分かず候。それにて遊ばされ候へ。
ワキ「さらば聞き候へ。
シテ「如何にも高らかに遊ばされ候へ。
ワキ「雲の上は。
シテ「雲の上は。
ワキ「雲の上は。有りし昔にかはらねど。見し玉だれの内やゆかしき。
シテ詞「あら面白の御歌や候。悲しやな古き流れを汲んで。水上を正すとすれど。歌よむべしとも思はれず。又申さぬ時は恐れなり。所詮此返歌を唯一字にて申さう。
ワキ詞「不思議の事を申す者かな。それ歌は三十一字を連ねてだに。心の足らぬ歌もあるに。一字の返歌と申す事。是も狂気の故やらん。
シテ「いやぞと云ふ文字こそ返歌なれ。
ワキ「ぞと云ふ文字とはさて如何に。
シテ「さらば帝の御歌を。詠吟せさせ給ふべし。
ワキ「不審ながらも指し上げて。雲の上は有りし昔にかはらねど。見し玉だれの内やゆかしき。
シテ詞「さればこそ内やゆかしきを引きのけて。内ぞゆかしきとよむ時は。小町がよみたる返歌なり。
ワキ「さて古もかゝるためしの有るやらん。
シテ「なふ鸚鵡返しと云ふ事は。
地「此歌の様を申すなり。帝の御歌を。ばひ参らせてよむ時は。天の恐れも如何ならん。和歌の道ならば。神もゆるしおはしませ。貴からずして高位に交はると云ふ事。たゞ和歌の徳とかや。〳〵。
地クリ「それ歌の様を尋ぬるに。長歌短歌旋頭歌。折句誹諧混本歌。鸚鵡返し廻文歌なり。
シテサシ「中んづく鸚鵡返しと云ふ事。唐に一つの鳥あり。
地「其の名を鸚鵡と云へり。人の云ふ言葉を受けて。即ちおのが囀りとす。何ぞといへば何ぞと答ふ。鸚鵡の鳥の如くに。歌の返歌もかくの如くなれば。鸚鵡返しとは申すなり。
クセ「実にや歌の様。語るに附けいにしへの。猶思はるゝはかなさよ。されば来し方の。代々の集めの歌人の。其多くある中に。今の小町は。妙なる花の色好み。歌の様さへ女にて。唯弱々とよむとこそ。家々の書伝にも。しるし置き給へり。
シテ「和歌の六義を尋ねしにも。
地「小町が歌をこそ。たゞこと歌のためしに。引くのみか我ながら。美人の形も世に勝れ。余情の花と作られ。桃花雨を帯び。柳髪風にたをやかなり。紫笋なほ動きほこり。梨花は名のみなりしかど。今憔悴と落ちぶれて。身体疲瘁する。小町ぞあはれなりける。
ワキ詞「如何に小町。業平玉津島にて法楽の舞をまなび候へ。
シテ詞「さても業平玉津島に参り給ふと聞えしかば。我も同じく参らんと。都をばまだ夜をこめて稲荷山。葛葉の里も浦近く。和歌吹上にさしかゝり。
地「玉津島に参りつゝ。〳〵。業平の舞の袖。思ひめぐらす信夫摺。木賊色の狩衣に。大紋の袴の稜を取り。風折烏帽子召されつゝ。
シテ「和光の光り玉津島。
地「廻らす袖や波がへり。(序の舞)
シテ「和歌の浦に。汐満ち来ればかたを浪の。
地「蘆辺をさして田鶴鳴き渡る鳴き渡る。
シテ「立つ名もよしなや忍音の。
地「立つ名もよしなや忍音の。月には愛でじ。
シテ「是ぞ此。
地「積れば人の。
シテ「老となる物を。
地「かほどに早き光りの陰の。時人を。待たぬ習ひとは白波の。
シテ「あら恋しの昔やな。
地「かくて此日も暮れ行くまゝに。さらばと云ひて。行家都に帰りければ。
シテ「小町も今は是までなりと。
地「杖にすがりてよろ〳〵と。立ち別れ行く袖の涙。立ち別れ行く。袖の涙も関寺の。柴の菴に帰りけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著

 

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十訓抄 第一 可定心操振舞事 二六

成範民部卿、事ありて後めしかへされて、内裡に参られたりけるに、むかしは女房の入立にてありし人の、今はさしもなかりければ、女房の中より、昔を思ひ出でゝ、
   雲の上はありし昔にかはらねど、見し玉だれの内やゆかしき。
とよみて出だしたりけるを、返事せんとて、灯炉のきはによりけるほどに、小松のおとゞ(重盛)の参り給ひければ、急ぎたちのくとて、とうろの火のかきあげの木のはしにて、やもじをけちて、そばにぞ文字ばかりをかきて、みすの内へさし入れて出でられにけり。女房取りてみるに、文字一つにて、かへしをせられたりける、有りがたかりけり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『十訓抄詳解』 石橋尚宝 著

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