姨捨
世阿弥作 前 ワキ 都の人 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 老女 地は 信濃 季は 八月 ワキ次第「月の名近き秋なれや。〳〵。姨捨山を尋ねん。 詞「かやうに候ふ者は。都方に住居仕る者にて候ふ。我未だ更科の月を見ず候ふほどに。此秋思ひ立ち姨捨山へと急ぎ候。 道行「此程の。しばし旅居の仮枕。〳〵。また立ちいづる中宿の。明かし暮らして行く程に。こゝぞ名におふ更科や。姨捨山に着きにけり。〳〵。 詞「さても我姨捨山に来て見れば。嶺平らかにして万里の空も隔てなく。千里に隈なき月の夜。さこそと思ひやられて候。いかさま此所にやすらひ。今宵の月を詠めばやと思ひ候。 シテ詞「なふ〳〵あれなる旅人は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「さん候是は都の者にて候ふが。はじめて此処に来りて候。さて〳〵御身はいづくに住む人ぞ。 シテ「是はこの更科の里に住む者にて候。今日は名におふ秋の半。暮るゝを急ぐ月の名の。殊に照り添ふ天の原。くまなき四方の気色かな。いかに今宵の月の面白からんずらん。 ワキ「さては更科の人にてましますかや。さて〳〵古へ姨捨の。在所はいづくの程にて候ふぞ。 シテ「姨捨山のなき跡と。問はせ給ふは心得ぬ。我心慰めかねつ更科や。姨捨山に照る月を見てと。詠ぜし人の跡ならば。是に小高き桂の木の。陰こそ昔の姨捨の。其なき跡にて候へとよ。 ワキ「さては此木の陰にして。捨て置かれにし人の跡の。 シテ「其まゝ土中に埋草。かりなる世とて今は早。 ワキ「昔語りになりし人の。猶執心や残りけん。 シテ「なき跡までも何とやらん。 ワキ「物すさましき此原の。 シテ「風も身にしむ。 ワキ「秋の心。 地「今とても。なぐさめかねつ更科や。〳〵。姨捨山の夕暮に。松も桂もまじる木の。緑も残りて秋の葉の。はや色づくか一重山。薄霧も立ちわたり。風冷ましく雲尽きて。さびしき山の気色かな。〳〵。 シテ詞「旅人はいづくより来り給ふぞ。 ワキ「されば以前も申すごとく。都の者にて候ふが。更科の月を承り及び。始めて此所に来りて候ふよ。 シテ「さては都の人にてましますかや。さあらば妾も月と共に。顕はれ出でゝ旅人の。夜遊を慰め申すべし。 ワキ「そもや夜遊を慰めんとは。御身はいかなる人やらん。 シテ「誠は我は更科の者。 ワキ「さていまは又何方に。 シテ「住家といはんは此山の。 ワキ「名にしおひたる。 シテ「姨捨の。 地「それといはんも恥かしや。〳〵。其古へも捨てられて。只一人此山に。澄む月の名の秋毎に。執心の闇を晴らさんと。今宵顕はれ出でたりと。夕陰の木の本に。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「夕陰すぐる月影の。〳〵。はや出で初めて面白や。万里の空も隈なくて。いづくの秋も隔てなき。心もすみて夜もすがら。三五夜中の新月の色。二千里の外の故人の心。 後ジテ「あら面白のをりからやな。あら面白のをりからや。明けば又秋の半も過ぎぬべし。今宵の月の惜しきのみかは。さなきだに秋待ちかねてたぐひなき。名を望月の見しだにも。おぼえぬ程に隈もなき。姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。昔とだにも思はぬぞや。 ワキ「不思議やな早更けすぐる月の夜に。白衣の女人あらはれ給ふは。夢か現か覚束な。 シテ「夢とはなどや夕暮に。顕はれ出でし老の姿。恥かしながら来りたり。 ワキ「何をか包み給ふらん。本より処も姨捨の。 シテ「山は老女が住処の。 ワキ「昔に帰る秋の夜の。 シテ「月の友人円居して。 ワキ「草を敷き。 シテ「花に起き臥す袖の露の。 二人「さも色々の夜遊の人に。いつ馴れそめてうつゝなや。 地「盛ふけたる女郎花の。〳〵。草衣しほたれて。昔だに。捨てられしほどの身を知らで。又姨捨の山に出でゝ。面を更科の。月に見ゆるも恥かしや。よしや何事も夢の世の。中々いはじ思はじや。思草花にめで。月に染みて遊ばん。 地クリ「実にや興にひかれて来り。興尽きて帰りしも。今のをりかと知られたる。今宵の空の気色かな。 シテサシ「然るに月の名所。何くはあれど更科や。 地「姨捨山の曇りなき。一輪満てる清光の影。団々として海嶠を離る。 シテ「然れば諸仏の御誓ひ。 地「いづれ勝劣なけれども。超世の悲願あまねき影。弥陀光明に若くはなし。 クセ「さるほどに。三光西に行く事は。衆生応して西方に。すゝめ入れんが為めとかや。月は彼如来の右の脇士として。有縁を殊に導き。重き罪を軽んずる。天上の力を得る故に。大勢至とは号すとか。天冠の間に。花の光りかゝやき。玉の台の数々に。他方の浄土をあらはす。玉珠楼の風の音。糸竹の調べとり〴〵に。心ひかるゝ方もあり。はち色々に咲きまじる。宝の池の辺に。立つや並木の花ちりて。芬芳しきりに乱れたり。 シテ「迦陵頻伽のたぐひなき。 地「声をたぐへて諸共に。孔雀鸚鵡の同じく。囀づる鳥のおのづから。光りも影もおしなべて。至らぬ隈もなければ。無辺光とは名づけたり。然れども雲月の。ある時は影満ち。又ある時は影欠くる。有為転変の世の中の。定めのなきを示すなり。 シテ「昔恋しき夜遊の袖。(序の舞) ワカ「我心。なぐさめかねつ更科や。 地「姨捨山に照る月を見て。〳〵。 シテ「月に馴れ。花に戯るゝ秋草の。露のまに。 地「露のまに。中々何しにあらはれて。胡蝶の遊び。 シテ「たはむるゝ舞の袖。 地「返せや返せ。 シテ「昔の秋を。 地「思ひいでたる妄執の心。やる方もなき今宵の秋風。身にしみ〴〵と。恋しきは昔。忍ばしきは閻浮の。秋よ友よと思ひ居れば。夜も既にしら〳〵と。はやあさまにもなりぬれば。我も見えず。旅人も帰るあとに。 シテ「独捨てられて老女が。 地「昔こそあらめ今も又。姨捨山とぞなりにける。姨捨山となりにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著