大原御幸
世阿弥作 ワキヅレ(大臣) 官人 シテ(女院) 建礼門院 ツレ 大納言の局 ツレ 阿波の内侍 ワキ 万里小路中納言 法皇 後白河院 地は 山城 季は 四月 大臣詞「是は後白河院に仕へ奉る臣下なり。さても此度先帝二位殿を始め奉り。平家の一門長門の国早鞆の沖にして。こと〴〵く果て給ひて候。女院も御身を投げさせ給ひ候ふを取り上げ奉り。かひなき御命たすかりおはしまし候。三河の守範頼。九郎太夫の判官義経兄弟供奉し申し。三種の神宝事故なく都に納まり給ひ候。さるほどに女院は都にうつらせ給ふべかりしを。先帝安徳天皇の御菩提。ならびに二位殿の御跡御弔ひの為に。大原の寂光院に浮世をいとひ御座候ふを。法皇御幸をなされ。御とぶらひあるべきとの勅諚にて候ふ間。御幸の山路をも申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。大原へ御幸あるべきなれば。行幸の道をもつくり。其きよめを仕り候へ。 シテサシ「山里は物のさびしき事こそあれ。世の憂きよりは中々に。 シテ、ツレ「住みよかりける柴の扃。都の方の音信は。間遠に結へる笆垣や。憂き節繁き竹柱。立居につけて物思へど。人目なきこそ安かりけれ。 歌「折々に心なけれど訪ふ物は。賤が妻木の斧の音。〳〵。梢の嵐猿の声。これらの音ならでは。正木のかづら青つゞら。来る人稀になりはてゝ。草顔淵が巷に。繁き思ひの行方とて。雨原憲が扃とも。湿ふ袖の涙かな。〳〵。 シテ詞「いかに大納言の局。後の山に上り樒を摘み候ふべし。 大納言局詞「わらはも御供申し。妻木蕨を折り供御にそなへ申し候ふべし。 シテサシ「譬は便なき事なれども。悉達太子は浄飯王の都を出で。檀特山の嶮しき道を凌ぎ。菜摘み水汲み薪。 地「とり〴〵様々に難行し。仙人に仕へさせ給ひて。終に成道なるとかや。我も仏の為なれば。御花筐取り〴〵。猶山深く入り給ふ。〳〵。(中入) ワキ一声「九重の。花の名残を尋ねてや。青葉をしたふ山路かな。 次第「分けゆく露もふかみ草。〳〵。大原の御幸急がん。 詞「行幸をはやめ申し候ふ間。大原に入御候。かくて大原に御幸なつて。寂光院の有様を見わたせば。露むすぶ庭の夏草しげりあひて。青柳糸を乱しつゝ。池の浮草波にゆられて。錦を曝すかと疑はる。岸の山吹咲き乱れ。八重立つ雲の絶間より。山時鳥の一声も。君の御幸を待ち顔なり。 法皇「法皇池の汀を叡覧あつて。池水に汀の桜ちりしきて。波の花こそ盛なりけれ。 地「旧りにける。岩のひまより落ちくる。〳〵。水の音さへよしありて。緑蘿の垣翠黛の山。絵にかくとも。筆にも及びがたし。一宇の御堂あり。甍破れては。霧不断の香を焼き。扃おちては月も又。常住の灯をかゝぐとは。かゝる所か物すごや。〳〵。 ワキ詞「是なるこそ女院の御庵室にてありげに候。軒には蔦朝顔はひかゝり。藜藋深く鎖せり。あら物すごの気色やな。いかに此庵室の内へ案内申し候。 阿波内侍「誰にてわたり候ふぞ。 ワキ「是は万里の小路の中納言にて候。 阿波内侍「それはさて人目まれなる山中へは。何とて御わたり候ふぞ。 ワキ「さん候女院の御住居御弔ひの為め。法皇是まで御幸にて候。 阿波内侍「女院は上の山へ花つみに御出でにて。今は御留守にて候。 ワキ「御幸のよし申して候へば。女院は上の山へ花つみに御出でにて。今は御留守のよし候。暫く此所に御座をなされ。御帰りを御待ちあらうずるにて候。 法皇「やあ如何にあの尼前。汝はいかなる者ぞ。 阿波内侍「げに〳〵御見忘れは御ことわり。是は信西が娘。阿波の内侍がなれる果にてさぶらふ。かくあさましき姿ながら。明日をも知らぬ此身なれば。恨みとは更に思はずさぶらふ。 法皇「女院はいづくに御わたり候ふぞ。 阿波内侍「上の山へ花つみに御出でにて候。 法皇「さて御供には。 阿波内侍「大納言の局。今少し待たせおはしまし候へ。やがて御帰りにて候ふべし。 シテサシ「昨日もすぎ今日も空しく暮れなんとす。明日をも知らぬ此身ながら。唯先帝の御面影。忘るゝひまはよもあらじ。極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽。主上を始め奉り。二位殿一門の人々。成等正覚。南無阿弥陀仏。 詞「や。庵室のあたりに人音の聞え候。 大納言局「しばらく是に御休み候へ。 阿波内侍「只今こそあの岨づたひを女院の御帰りにて候。 法皇「さて何れが女院。大納言の局はいづれぞ。 阿波内侍「花がたみ臂に懸けさせ給ふは。女院にてわたらせ給ふ。妻木に蕨折りそへたるは。大納言の局なり。 詞「いかに法皇の御幸にて候。 シテ「中々に猶妄執の閻浮の世を。忘れもやらで浮名をまた。漏らせば漏るゝ涙の色。袖の気色もつゝましや。 下歌地「とは思へども法の人。同じ道にと頼むなり。 上歌「一念の窓の前。一念の窓の前に。摂取の光明を期しつゝ。十念の柴の扃には。聖衆の来迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。古へに帰るかと。猶思出の涙かな。げにや君こゝに。叡慮のめぐみ末かけて。あはれもさぞな大原や。芹生の里の細道。朧の清水月ならで。御影や今に残るらん。 ロンギ地「さてや御幸の折しもは。いかなる時節なるらん。 シテ「春過ぎ夏もはや。北祭の折なれば。青葉にまじる夏木立。春の名残ぞ惜しまるゝ。 地「遠山にかゝる白雲は。 シテ「散りにし花のかたみかや。 地「夏草の。しげみが原のそことなく。分け入り給ふ道の末。 シテ「こゝとてや。〳〵。げに寂光の静なる。光の陰を惜しめたゞ。 地「光の影も明らけき。玉松が枝に咲き添ふや。 シテ「池の藤波夏かけて。 地「是も御幸を。 シテ「待ちがほに。 地「青葉がくれの遅桜。初花よりもめづらかに。中々やうかはる有様を。あはれと叡慮にかけまくも。かたじけなしや此御幸。柴の扃のしばしがほども。あるべき住居なるべしや。あるべき住居なるべし。 シテ「思はずも深山の奥の住居して。雲井の月をよそに見んとは。かやうに思ひ出でしに。此山里までの御幸。かへす〴〵も有難うこそ候へ。 法皇「さいつ頃ある人の申せしは。女院は六道の有様まさに御覧じけるとかや。仏菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審にこそ候へ。 シテ「勅諚はさる御事なれども。つら〳〵我身を案じ見るに。 クリ「夫身を観ずれば。岸の額に根を離れたる草。 地「命を論ずれば。江のほとりに繋がざる舟。 シテサシ「されば天上の楽しみも。身に白露の玉かづら。 地「ながらへ果てぬ年月も。終に五衰のおとろへの。 シテ「消えもやられぬ命の中に。 地「六道のちまたに迷ひしなり。 クセ「まづ一門。西海の波に浮き沈み。よるべも知られぬ船の内。海にのぞめども。潮なれば飲水せず。餓鬼道の如くなり。又ある時は。汀の波の荒磯に。打ちかへすかの心地して。船こぞりつゝ泣き叫ぶ。声は叫喚の。罪人もかくや浅ましや。 シテ「陸の争ひある時は。 地「是ぞ誠に目の前の。修羅道の戦。あら恐ろしや数々の。駒の蹄の音聞けば。畜生道の有様を。見聞くも同じ人道の。苦しみとなりはつる。憂き身の果ぞ悲しき。 法皇詞「げに有難き事どもかな。先帝の御最期の有様。何とか渡り候ひつる御物語り候へ。 シテ「其時の有様申すにつけて恨めしや。長門の国早鞆とやらんにて。筑紫へ一先落ちゆくべきと一門申し合ひしに。緒方の三郎が心がはりせしほどに。薩摩潟へや落さんと申しゝ折節。上り汐にさへられ。今はかうよと見えしに。能登の守教経は。安芸の太郎兄弟を左右の脇に挟み。最期の供せよとて海中に飛んで入る。新中納言知盛は。沖なる船の碇を引きあげ。兜とやらんに戴き。乳母子の家長が弓と弓とを取りかはし。其まゝ海に入りにけり。其時二位殿鈍色の二つ衣に。練袴のそば高く挟んで。我身は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。主上の御供申さんと。安徳天皇の御手を取り舷に臨む。いづくへ行くぞと勅諚ありしに。此国と申すに逆臣多く。かくあさましき処なり。極楽世界と申して。めでたき所の此波の下にさぶらふなれば。御幸なし奉らんと。泣く〳〵奏し給へば。さては心得たりとて。東に向はせ給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて。 地「又十念の御為に。西に向はせおはしまし。 シテ「今ぞ知る。 地「御裳濯川の流れには。波の底にも都ありとはと。是を最期の御製にて。千尋の底に入り給ふ。自もつゞいて沈みしを。源氏の武士とりあげて。かひなき命ながらへ。二度龍顔に逢ひ奉り。不覚の涙に。袖をしをるぞ恥かしき。 地「いつまでも。御名残はいかで尽きぬべき。はや還幸とすゝむれば。〳〵。御輿を早め遥々と。寂光院を出で給へば。 シテ「女院は柴の戸に。 地「暫しが程は見送らせ給ひて。御庵室に入り給ふ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第五輯』大和田建樹 著