女郎花
亀阿弥作 前 ワキ 九州の僧 シテ 老人 後 ワキ 前に同じ シテ 小野頼風 ツレ 同人妻 地は 山城 季は 八月 ワキ詞「是は九州松浦方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち都に上り候。 道行「住み馴れし。松浦の里を立ち出でゝ。〳〵。末不知火の筑紫潟。いつしか跡に遠ざかる。旅の道こそ遥かなれ。〳〵。 詞「急ぎ候ふ程に。是はゝや津の国山崎とかや申し候。向ひに拝まれさせ給ふは。石清水八幡宮にて御座候。我国の宇佐の宮と御一体なれば。参らばやと思ひ候。又是なる野辺に女郎花の今を盛と咲き乱れて候。立ち寄り詠めばやと存じ候。 ワキ「さても男山麓の野辺に来て見れば。千草の花盛んにして。色を飾り露を含みて。虫の音までも心有り顔なり。野草花を帯びて蜀錦を連ね。桂林雨を払つて松風を調ぶ。 詞「此男山の女郎花は。古歌にもよまれたる名草なり。是も一つは家づとなれば。花一本を手折らんと。此女郎花の辺に立ち寄れば。 シテ詞「なふ其花な折り給ひそ。花の色は蒸せる粟の如し。俗呼ばつて女郎とす。戯ぶれに名を聞いてだに偕老を契るといへり。ましてや是は男山の。名を得て咲ける女郎花の。多かる花に取り分きて。など情なく手折り給ふ。あら心なの旅人やな。 ワキ詞「さて御身は如何なる人にてましませば。是程咲き乱れたる女郎花をば惜しみ給ふぞ。 シテ「惜しみ申すこそ理なれ。此野辺の花守にて候。 ワキ「たとひ花守にてもましませ。御覧候へ出家の身なれば。仏に手向と思し召し。一本御ゆるし候へかし。 シテ「実に実に出家の御身なれば。仏に手向と思ふべけれど。彼菅原の神木にも折らで手向けよと。其外古き歌にも。折り取らば手ぶさに穢る立てながら。三世の仏に花奉るなどゝ候へば。ことさら出家の御身にこそ。猶しも惜しみ給ふべけれ。 ワキ「左様に古き歌を引かば。何とて僧正遍昭は。名にめでゝ折れるばかりぞ女郎花とはよみ給ひけるぞ。 シテ「いやさればこそ我落ちにきと人に語るなと。深く忍ぶの摺衣の。女郎と契る草の枕を。並べしまでは疑ひなければ。其御たとへを引き給はゞ。出家の身にては御誤り。 ワキ「かやうに聞けば戯ぶれながら。色香にめづる花心。兎角申すによしぞなき。暇申して帰るとて。もと来し道に行き過ぐる。 シテ「あふやさしくも所の古歌をば知ろし召したり。女郎花憂しと見つゝぞ行き過ぐる。男山にし立てりと思へば。 下歌地「優しの旅人や。花は主ある女郎花。よし知る人の名にめでゝ。免し申すなり。一本折らせ給へや。 上歌「なまめき立てる女郎花。〳〵。うしろめたくや思ふらん。女郎と書ける花の名に。誰偕老を契りけん。彼邯鄲の仮枕。夢は五十のあはれ世の。ためしもまことなるべしや。〳〵。 ワキ詞「此野辺の女郎花に詠め入りて。いまだ八幡宮に参らず候。 シテ詞「此尉こそ唯今山上する者にて候へ。八幡への御道しるべ申し候ふべし此方へ御入り候へ。 ワキ「聞きしに越えて尊く有難かりける霊地かな。 シテ「山下の人家軒をならべ。 二人「和光の塵も濁り江の。河水に浮ぶ鱗は。実にも生けるを放つかと。深き誓ひもあらたにて。恵みぞ繁き男山。栄行く道の有難さよ。 下歌地「頃は八月半の日。神の御幸なる。御旅所を伏し拝み。 上歌「久方の。月のかつらの男山。〳〵。さやけき影は所から。紅葉も照り添ひて。日もかげろふの石清水。苔の衣も妙なりや。三つの袂に影うつる。しるしの箱を納むなる。法の神宮寺。有難かりし霊地かな。巌松聳つて。山聳え谷迴りて。諸木枝を連ねたり。鳩の嶺越し来て見れば。三千世界もよそならず。千里も同じ月の夜の。朱の玉垣みとしろの。錦かけまくも。かたじけなしと伏し拝む。 シテ詞「是こそ石清水八幡宮にて御座候へ。よく〳〵御拝み候へ。はや日の暮れて候へば御暇申し候ふべし。 ワキ詞「なふ〳〵女郎花と申す事は。此男山につきたる謂にて候ふか。 シテ「あら何ともなや。さきに女郎花の古歌を引いて。戯ぶれを申し候ふも徒事にて候。女郎花と申すこそ。男山に付きたる謂にて候へ。又此山の麓に。男塚女塚とて候ふを見せ申し候ふべし。此方へ御入り候へ。是なるは男塚。又此方なるは女塚。此男塚女塚に付いて。女郎花の謂も候。是は夫婦の人の土中にて候。 ワキ「さて其夫婦の人の国は何処。名字は如何なる人やらん。 シテ「女は都の人。男は此八幡山に。小野の頼風と申しゝ人。 地「恥かしやいにしへを。語るもさすがなり。申さねば又亡き跡を。誰か稀にも弔ひの。便りを思ひ頼風の。更け行く月に木隠れて。夢の如くに失せにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「一夜伏す。男鹿の角の塚の草。〳〵。陰より見えし亡魂を。弔ふ法の声立てゝ。南無幽霊出離生死頓生菩提。 後ジテ「あふ嚝野人稀なり。我古墳ならで又何物ぞ。 ツレ「骸を争ふ猛獣は。禁ずるにあたはず。 シテ「なつかしや聞けば昔の秋の風。 ツレ「うら紫か葛の葉の。 シテ「かへらば連れよ妹脊の波。 地「消えにし魂の女郎花。花の夫婦は顕はれたり。あら有難の御法やな。 ワキ「影の如くに亡魂の。顕はれ給ふ不思議さよ。 ツレ「妾は都に住みし者。彼頼風に契りを籠めしに。 シテ詞「少し契りのさはりある。人間を誠と思ひけるか。 ツレ「女心のはかなさは。都を独りあくがれ出でゝ。猶も恨みの思ひ深き。放生川に身を投ぐる。 シテ「頼風是を聞き付けて。驚きさわぎ行き見れば。あへなき死骸ばかりなり。 ツレ「泣く〳〵死骸を取り上げて。此山本の土中にこめしに。 シテ「其塚より女郎花一本生ひ出でたり。頼風心に思ふやう。さては我妻の女郎花になりけるよと。猶花色もなつかしく。草の袂も我袖も。露触れそめて立ち寄れば。此花恨みたる気色にて。夫の寄れば靡き退き。又立ち退けばもとの如し。 地「こゝによつて貫之も。男山の昔を思つて。女郎花の一時を。くねると書きし水茎の。跡の世までもなつかしや。 クセ「頼風其時に。彼あはれさを思ひ取り。無慙やな我故に。よしなき水の泡と消えて。徒なる身となるも。ひとへに我科ぞかし。若かじうき世に住まぬまでと。同じ道にならんとて。 シテ「つゞいて此川に身を投げて。 地「ともに土中に籠めしより。女塚に対して。又男山と申すなり。其塚は是れ主は我。幻ながら来りたり。跡弔ひてたび給へ。〳〵。 地「あら閻浮恋しや。 地「邪淫の悪鬼は身を責めて。〳〵。其念力の。道も嶮しき剣の山の。上に恋しき人は見えたり。うれしやとて行き登れば。剣は身を徹し。磐石は骨を砕く。こはそも如何に恐ろしや。剣の枝の撓むまで。いかなる罪のなれる果ぞや。よしなかりける花の一時を。くねるも夢ぞ女郎花。露の台や花の縁に。浮べてたび給へ。罪を浮べてたび給へ。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著