柏崎
江波左衛門作 前 ワキ 柏崎殿の家臣小太郎 シテ 柏崎殿の妻 後 子方(謡なし) 子息花若 ワキヅレ 善光寺住僧 シテ(狂女) 前に同じ 地は 前は越後 後は信濃 季は 十月 ワキ次第「夢路も添ひて古郷に。〳〵。帰るや現なるらん。 詞「是は越後の国柏崎殿の御内に。小太郎と申す者にて候。さても頼み奉りし人は。訴訟の事候ひて。在鎌倉にて御座候ひしが。唯かりそめに風の心地と仰せ候ひて。程なく空しくなり給ひて候。又御子息花若殿も。同じく在鎌倉にて御座候ひしが。父御の御別れを歎き給ひ。何くともなく御遁世にて候。さる間花若殿の御文に。御形見の品々を取りそへ。只今故郷柏崎へと急ぎ候。 道行「乾しぬべき。日影も袖やぬらすらん。〳〵。今行く道は雪の下。一通り降る村時雨。山の内をも過ぎ行けば。袖さえまさる旅衣。碓氷の峠うちすぎて。越後に早く着きにけり。〳〵。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。故郷柏崎に着きて候。まづ〳〵案内を申さうずるにて候。如何に申し候。鎌倉より小太郎が参りて候ふそれ〳〵御申し候へ。 シテ詞「なに小太郎とは。もし殿の御帰りありたるか。あらめづらしや何とて物をば申さぬぞ。 ワキ「さん候ふ是までは参りて候へども。何と申し上ぐべきやらん。更に思ひも弁へず候。 シテ「あら心もとなや。物をば申さでさめ〴〵と泣くは。さて花若が方に何事かある。 ワキ「さん候花若殿は御遁世にて御座候。 シテ「何と花若が遁世したるとは。さては父の叱りけるか。など追手をばかけざりしぞ。 ワキ「いや左様にも御座なく候。様々の御形見の物を持ちて参りて候。 シテ「何さま〴〵の形見とは。さては花若が父の空しくなりたるな。此程はそなたの風もなつかしく。便りもうれしかりつるに。形見をとゞくる音信は。中々聞きても恨めしきぞや。たゞ仮初に立ち出でゝ。やがてと言ひし其主は。 地「昔語りに早なりて。形見を見るぞ涙なる。 ロンギシテ「さてや最期の折節は。いかなる事か宣ひし。委しく語りおはしませ。せめては聞いて慰まん。 ワキ「唯故郷の御事を。おぼつかなく思し召し。御最期までも人知れず。ひそかに御諚ありしなり。 シテ「実にやさこそはおはすらめ。三年離れて其後は。我も御名残。いつの世にかは忘るべき。 ワキ「御ことわりと思へども。歎きをとゞめおはしまし。形見を御覧候へ。 シテ「実にや歎きても。かひなき世ぞと思へば。 地「形見を見るからに。すゝむ涙はせきあへず。 ワキ詞「花若殿の御文の候。これを御覧候へ。 シテ「さても〳〵父御前。痛はりつかせ給ひ。程なく空しくなり給へば。心の内の悲しさは。唯おぼしめしやらせ給へ。我も帰りて御ありさま。見参らせたくは候へども。思ひ立ちぬる修行の道。もしや止められ申さんと。思ふ心を便りにて。心づよくも出づるなり。命つれなく候はゞ。三年が内には参るべし。様々の形見を御覧じて。御心を慰みおはしませと。書いたる文の恨めしや。 下歌地「なからん父が名残には。子ほどの形見あるべきか。 上歌「父が別れは如何なれば。〳〵。悲しみ修行に出づる身の。などや生きてある。母に姿を見みえんと。思ふ心のなかるらん。恨めしの我子や。うき時は。恨みながらもさりとては。我子のゆくへ安穏に。守らせ給へ神仏と。祈る心ぞあはれなる。〳〵。(中入) 僧詞「かやうに候ふ者は。信濃の国善光寺の住僧にて候。又是に渡り候ふ人は。いづくとも知らず愚僧を頼むよし仰せ候ふ程に。師弟の契約をなし。此ほど出家させ申して候。さる間毎日如来堂へ伴なひ申し候。今日も又参らばやと思ひ候。 後ジテ詞「是なる童部どもは何を笑ふぞ。何物に狂ふがをかしいとや。うたてやな心あらん人は。訪ひてこそたぶべけれ。それをいかにといふに。夫には死して別れ。唯ひとり忘れ形身とも思ふべき。子の行方をも白糸の。 地「乱れ心や狂ふらん。 シテサシ「実にや人の身のあだなりけりと。誰かいひけん空言や。又思ひには死なれざりけりと。よみしもことわりや。今身の上に知られたり。是もひとへに夫や子の。故と思へば恨めしや。 下歌地「うき身は何と楢の葉の。柏崎をば狂ひ出で。 上歌「越後の国府に着きしかば。〳〵。人目も分かぬ我姿。いつまで草のいつまでと。知らぬ心は麻衣。浦はる〴〵と行くほどに。松風遠くさびしきは。常磐の里の夕べかな。我にたぐへて。あはれなるは此里。子故に身をこがしゝは。野辺のきじまの里とかや。降れどもつもらぬ淡雪の。浅野といふは是かとよ。桐の花咲く井の上の。山を東に見なして。西に向へば善光寺。正身の弥陀如来。わが狂乱はさておきぬ。死して別れし。夫を導きおはしませ。 僧詞「いかに狂女。御堂の内陣へは叶ふまじきぞ。急いで出で候へ。 シテ詞「極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽とこそ見えたれ。 僧「是は不思議の物狂ひかな。そも左様の事をば誰が教へけるぞ。 シテ「教へは本よりみだ如来の。御誓ひにてはましまさずや。唯心の浄土と聞く時は。此善光寺の如来堂の。内陣こそは極楽の。九品上生の台なるに。女人の参るまじきとの御制戒とはそもされば。如来の仰せありけるか。よし人々は何ともいへ。声こそしるべ南無阿弥陀仏。 地「頼もしや。〳〵。 シテ「釈迦は遣り。 地「弥陀は導く一筋に。こゝを去ること遠からず。是ぞ西方極楽の。上品上生の。内陣にいざや参らん。光明遍照十方の。誓ひぞしるき此寺の。常の灯影頼む。夜念仏申せ人々よ。夜念仏いざや申さん。 シテ詞「いかに申し候。如来へ参らせ物の候。此烏帽子直垂は。別れし夫の形見なれども。形見こそ今はあだなれ是なくは。忘るゝひまもあらまし物をと。よみしも思ひ知られたり。是を如来に参らせて。夫の後生善所をも。祈らばやと思ひ候。あらいとほしや此烏帽子直垂の主は。よろづ何事につきても闇からず。弓は三物とやらんを射そろへ。歌連歌の道も達者なりし上。又酒盛などの折節は。いで人々に乱舞まうて見せんとて。鎧直垂とりいだし。衣紋うつくしく着ないて。へりぬり取つて打ちかづき。手拍子人に囃させて。扇おつ取り。鳴るは滝の水。 地クリ「それ一念称名の声の内には。摂取の光明を待ち。聖衆来迎の雲の上には。 シテ「九品蓮台の花散りて。 地「異香みち〳〵て人に薫じ。白虹地に満ちて連なれり。 シテサシ「つら〳〵世間の幻相を観ずるに。飛花落葉の風の前には。有為の転変をさとり。 地「電光石火の影の中には。生死の去来を見る事。始めて驚くべきにはあらねども。幾世の夢とまとはりし。仮の親子の今をだに。添ひはてもせぬ道芝の。露のうき身の置き処。 シテ「誰に問はまし旅の道。 地「是もうき世の習ひかや。 クセ「悲しみの涙眼にさへぎり。思ひの煙胸に満つ。つら〳〵之を案ずるに。三界に流転して。猶人間の妄執の。晴れがたき雲の端の。月の御影や明らけき。真如平等の台に。至らんとだにも歎かずして。煩悩のきづなに。結ぼゝれぬるぞ悲しき。罪障の山高く。生死の海ふかし。如何にとしてか此生に。此身を浮べんと。実に歎けども人間の。身三口四意三の。十の道おほかりき。 シテ「されば初めの御法にも。 地「三界一心なり。心外無別法。心仏及衆生と聞く時は。是三無差別。なに疑ひのあるべきや。己身の弥陀如来。唯心の浄土なるべくは。尋ぬべからず此寺の。御池の蓮の。得ん事をなどか知らざらん。只願はくは影たのむ。声を力の助船。黄金の岸に至るべし。そも〳〵楽しみを極むなる。教へあまたに生れ行く。道さま〴〵の品なれや。宝の池の水。功徳池の浜の真砂。かず〳〵の玉の床。台も品々の。楽みを極め量りなき。命の仏なるべしや。若我成仏。十方の世界なるべし。 シテ「本願あやまり給はずは。 地「今の我らが願はしき。夫の行方を白雲の。たなびく山や西の空の。彼国に迎へつゝ。一つ浄土の縁となし。望みを叶へ給ふべしと。称名も鉦の音も。暁かけて灯の。善き光ぞと仰ぐなりや。南無帰命弥陀尊。願ひをかなへ給へや。 ロンギ地「今は何をかつゝむべき。是こそ御子花若と。いふにもすゝむ涙かな。 シテ「我子ぞと。聞けば余りに堪へかぬる。夢かとばかり思ひ子の。何れぞさてもふしぎやな。 地「ともにそれとは思へども。かはる姿は墨染の。 シテ「見しにもあらぬ面忘れ。 地「母の姿もうつゝなき。 シテ「狂人といひ。 地「おとろへといひ。互にあきれてありながら。よく〳〵見れば園原や。伏屋に生ふる箒木の。ありとは見えて逢はぬとこそ。聞きし物を今ははや。うたがひもなき其母や子に。逢ふこそうれしかりけれ。〳〵。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著