春日野の露
シテ 露草の精 ワキ 都東山の僧 所 大和春日野 時 秋 次第「花の詠は九重や。〳〵。八重の紅葉をからふよ。 ワキ詞「是は都東山の僧にて候。我等春日の明神に参らず候程に。此度思ひたち。四所明神に参籠申さばやと思ひ候。 道行「夏過て。秋風そよぐ深草の。〳〵。森の下露袖ぬるゝ。井手の玉水底清く。けふみかのはら和泉川。奈良の都に着にけり。〳〵。 詞「急候得共。秋の日の習ひ。早暮かゝる春日の気色。社頭の灯火しんしんとし。いとゞ心も澄渡り。神さびまさる猿沢の。月の光もかげ清。えならぬ詠にて候。今宵は野宿し。明て参詣申さばやと思ひ候。 サシ「面白や何国より。置とも知らぬ白露の。暮れば草の上に見えて。月を宿せる誮しさよ。実や古き言の葉に。棹鹿の起伏分ず仕へきて。春日の野辺に秋も経にけり。 詞「往事を思ふ内に夜も明方に成やらん。枕に近き鹿の声。今まで宿りし露の月を。鹿の鳴音にふりはてゝ。あさまになりて候はいかに。三笠山。葉山しげやま露ふかみ。月に宿かす。鹿の一声。 シテ出、女「あさぢふのしのにおしなみ置露を。寔の玉と。思はましかば。 ワキカヽル「ふしぎやな。あけぼのながらほのぐらきに。女の歌を吟ずる声。朝とでの神詣でか。いか成人にてましますぞ。 シテ詞「中々。神に詣て。朝清めのかんなぎなるが。只今御僧の詞の末に。月は露には宿らずして。小鹿に宿を召るゝとの。言の葉を不審申さん為。声を知べにより来る也。 ワキ「是は此春日野に通夜する旅の僧成が。露に宿れる月影を。鹿の鳴音にふりおとし。空敷なせば露よりも。鹿を主じとたわぶれしよ。 シテ「辞々夫は愚なり。風にも露は散ぬ物を。立はあけぼの近ければ。寐覚に鹿のなかんとて。先身振ひをなす事也。小鹿の住ぬ草葉の露。落すは月もあくるまで。などかお宿をめさゞらん。 ワキ「実面白きとがめ哉。小鹿の宿りも。露の宿りも。皆うつゝなき空事の。 シテ「互ひにあらそひ。 ワキ「いへばえに。 同「いはねば胸にさはがれて。〳〵。袖に替らぬ草葉迄。問ばや秋は。ものや思ふと。露のかごとも恥かしや。我露草の精成と。木隠に消にけり。朝日待とりて消にけり。(中入) ワキ「実や如露亦如電。有情非情に至るまで。御法にもるゝものあらじ。 歌「此春日野の草枕。〳〵。暮れば露の玉きはる。御法を唱へ露の紐。ときてお経を読誦せん。〳〵。 後シテ、一声、サシ「露は陰陽の気。陰気勝時はこりて霜雪と成。陽気勝時は散じてつゆと成。何ぞ世にあらゆる類ひ。陰陽の外ならんや。荒面白の雨露の恵みや。 ワキ「枕とるね覚の床。玉をつらぬる露のうてなに。やごとなき人の御有様。其露草にてましますか。 シテ詞「置残る。草葉も見えぬ夕露の。我袖にさへ又余りぬる。露のかごとぞ恥しき。 ワキカヽル「いや〳〵何か隔あらん。我一度は露の身の消をあらそふ。 ワキ「有情非情。 シテ「皆一仏の御法也。 二人「草木国土成仏の。おしへにもるゝ事や有。分て春日の神心。 同「隔てはあらじ三笠山。さして頼めよ後の世の。玉の台も露の身を。〳〵。 同クリ「夫上は徳天に至り。和気感ずる時は則甘露。松柏にくだる。 サシ「抑天地開闢の昔。一滴の露こりて国と成。 同「天がしたしむ政り事。雨露の恵みにあらざるや。 シテ「又露こりて人と成。 同「淵共海とも川共成。誰れか是をあらそはん。 クセ「目には見れ共白露の。拾へば落る玉笹の。霰より猶けぬべしや。萩の葉に置ける白露玉ぞとて。袖につゝめどたまらぬは。衣の裏の玉なれや。さとらば手にも入ぬべし。皆人の聞置し。言の葉毎に忘しは。庭のおしへの秋の白露消ぬまに。寔のをしへたもてとや。 同「野原より。露のゆかりを尋来て。 同「我衣手に秋風の。吹くや吹ずや世の中は。心よりをく夕露を。袖の外とや人もみる。月の桂の雲隠れ。入日のかげは見えね共。露の光りは残るぞや。千年の鶴も万年の亀も。朽れば露となるものを。はかなかりける憂世かな。 同「おもしろや。(舞) ワカ「おもしろや。露にやどかるいな妻の。 同「化成事を人にしれとや。〳〵。〳〵。 シテ「うき世に残る物はあらじな。 同「一日も暮に成。 シテ「一月も移り。 同「一年もたち帰り。 シテ「十年百年。 同「千とせ住ものも。つゐには野辺に置る白露。あだなれや〳〵。真如の露の玉。尋よ〳〵春日野も遠し。着たる衣のうらふき返して。露の白玉は光明かくやくとして有物を。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編