春日龍神
世阿弥作 前 ワキ 明恵上人 シテ 宮守 後 ワキ 前に同じ シテ 龍神 地は 大和 季は 三月 ワキ次第「月の行方も其方ぞと。〳〵。日の入る国を尋ねん。 詞「是は栂尾の明恵法師にて候。我入唐渡天の志有るにより。御暇乞の為めに春日の明神に参らばやと思ひ。唯今南都に下向仕り候。 道行「愛宕山。樒が原をよそに見て。〳〵。月に双の岡の松。緑の空も長閑なる。都の山を跡に見て。是も南の都路や。奈良坂越えて三笠山。春日の里に着きにけり。〳〵。 シテ一声「晴れたる空に向へば。和光の光りあらたなり。 シテサシ「夫れ山は動かざる形を現じて。古今に至る神道を顕はし。里は平安の巷を見せて。人間長久の声満てり。誠に御名も久堅の。天の児屋根の世々とかや。 下歌「月に立つ。影も鳥居の二柱。 上歌「御社の。誓ひもさぞな四所の。〳〵。神の代よりの末受けて。澄める水屋の御影まで。塵に交はる神心。三笠の森の松風も。枝を鳴らさぬ気色かな。〳〵。 ワキ詞「いかに是なる宮つこに申すべき事の候。 シテ詞「や。是は栂尾の明恵上人にて御座候ふぞや。唯今の御参詣さこそ神慮にうれしく思し召し候ふらん。 ワキ「さん候ふ唯今参詣申す事余の儀にあらず。我入唐渡天の志あるにより。御暇乞の為めに唯今参りて候。 シテ「是は仰せにて候へども。さすがに上人の御事は。年始より四季折々の御参詣の。時節の少し遅速をだに。待ち兼ね給ふ神慮ぞかし。されば上人をば太郎と名付け。笠置の解脱上人をば次郎と頼み。左右の眼両の手の如くにて。昼夜各参の擁護懇なるとこそ承りて候ふに。日本を去り入唐渡天し給はん事。いかで神慮に叶ふべき。唯思し召しとまり給へ。 ワキ「実に実に仰せはさる事なれども。入唐渡天の志も。仏跡を拝まん為めなれば。何か神慮に背くべき。 シテ「是れ又仰せとも覚えぬ物かな。仏在世の時ならばこそ。見聞の益も有るべけれ。今は春日の御山こそ。即ち霊鷲山なるべけれ。其うへ上人初参の御時。奈良坂の此手を合はせて礼拝する。人間は申すに及ばず心なき。 地「三笠の森の草木の。〳〵。風も吹かぬに枝を垂れ。春日山。野辺に朝立つ鹿までも。皆こと〴〵く出で向ひ。膝を折り角を傾け。上人を礼拝する。かほどの奇特を見ながらも。誠の浄土は何処ぞと。問ふは武蔵野の。果しなの心や。唯返す〴〵我頼む。神のまに〳〵とゞまりて。神慮をあがめおはしませ。〳〵。 ワキ詞「猶々当社の御事委しく御物語り候へ。 シテサシ「然るに入唐渡天といつぱ。仏法流布の名を留めし。 地「古跡を尋ねん為めぞかし。天台山を拝むべくは。比叡山に参るべし。五台山の望みあらば。吉野筑波を拝すべし。 シテ「昔は霊鷲山。 地「今は衆生を度せんとて。大明神と示現し。此山に宮居し給へば。 シテ「即ち鷲の御山とも。 地「春日の御山を拝むべし。 クセ「我を知れ。釈迦牟尼仏世に出でゝ。さやけき月の世を照らすとはの。御神詠もあらたなり。然れば誓ひある。慈悲万行の神徳の。迷ひを照らす故なれや。小機の衆生の益なきを。悲しみ給ふ御姿。瓔珞細軟の衣を脱ぎ。麤弊の散衣を着しつゝ。四諦の御法を説き給ひし。鹿野苑もこゝなれや。春日野に起き臥すは。鹿の苑ならずや。 シテ「其外当社の有様の。 地「山は三笠に陰さすや。春日そなたに顕はれて。誓ひを四方に春日野の。宮路も末あるや曇りなき。西の大寺月澄みて。光ぞまさる七大寺。御法の花も八重桜の。都とて春日野の。春こそ長閑けかりけれ。 ワキ詞「実に有難き御事かな。即ち是を御神託と思ひ定めて。此度の入唐をば思ひ留まるべし。さて〳〵御身は如何なる人ぞ。御名を名乗り給ふべし。 シテ詞「入唐渡天をとゞまり給はゞ。三笠の山に五天竺を写し。摩耶の誕生伽耶の成道。鷲峰の説法。 地「双林の入滅まで。悉く見せ奉るべし。暫くこゝに待ち給へと。木綿四手の神の告。我は時風秀行ぞとて。かき消すやうに失せにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「神託まさにあらたなる。〳〵。声の内より光さし。春日の野山金色の。世界となりて草も木も。仏体となるぞ不思議なる。〳〵。 地「時に大地震動するは。下界の龍神の参会か。 後ジテ「すは八大龍王よ。 地「難陀龍王。 シテ「跋難陀龍王。 地「娑伽羅龍王。 シテ「和修吉龍王。 地「徳叉迦龍王。 シテ「阿那婆達多龍王。 地「百千眷属引き連れ〳〵。平地に波瀾を立てゝ。仏の会座に出来して。御法を聴聞する。 シテ「其ほか妙法緊那羅王。 地「また持法緊那羅王。 シテ「楽乾闥婆王。 地「楽音乾闥婆王。 シテ「婆稚阿修羅王。 地「羅睺阿修羅王の。恒沙の眷属引き連れ〳〵。是も同じく座列せり。 地「龍女が立ち舞ふ波瀾の袖。〳〵。白妙なれやわだの原の。払ふは白玉立つは緑の。空色もうつる海原や。沖行くばかり月の御舟の。佐保の川づらに浮び出づれば。 シテ「八大龍王。 シテ「八大龍王は。 地「八つの冠を傾け。所は春日野の。月の三笠の雲に上り。飛火の野守も出でゝ見よや。摩耶の誕生鷲峰の説法。双林の入滅こと〴〵く終りて。是までなりや明恵上人。さて入唐は。 ワキ「とまるべし。 地「渡天は如何に。 ワキ「渡るまじ。 地「さて仏跡は。 ワキ「尋ぬまじや。 地「尋ねても〳〵。此上嵐の雲に乗りて。龍女は南方に飛び去り行けば。龍神は猿沢の。池の青波蹴立て〳〵て。其丈千尋の大蛇となつて。天に群がり地に蟠りて。池水を返して失せにけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著