鐘引 一名 引鐘
前 ワキ 園城寺の僧 ヲカシ 能力 ワキヅレ 従僧 シテ 里人 後 ワキ 前に同じ シテ 龍神 地は 近江 季は 雑 ワキ詞「是は江州園城寺の住僧にて候。さても当寺の鐘余りにちひさく候ふほどに。今日集会をなし。鐘を大きに鋳させばやと存じ候。 ヲカシ「いかに申し上げ候。藤太秀郷の方より当寺へ御状の御座候。 ワキ「何と秀郷のかたより御状の有ると申すか。 ヲカシ「さん候。先々御状を御覧候へ。 ワキ「何々畏つて申し上げ候。さても秀郷はからざるに龍宮に頼まれ。変化の蜈蚣を平らげ候。其勲功に十種の贈物あり。中にも妙なるは一つの梵鐘なり。其こゑたへにして聞く人菩提に至るといへり。しからば此鐘を園城寺へ寄進申すべきなり。今夜かならず龍宮より来るべし。龍神に法味をなし給はゞ。あへて疑あるべからず。なんぼう不思議なる文にて候。 ワキツレ「是は秀郷の申されごとにて候へども。先づ鐘を持参申してこそ候へ。いまだ目に見えざる鐘をかやうに申され候ふ事。天晴秀郷の聊爾かと存じ候。 ワキ「いや〳〵秀郷と申すに。五常乱れぬ名将なり。かまへて疑有るべからず。八歳の龍女は釈尊に。 地「宝珠を捧げ忽に。〳〵。南方無垢の成等を。となへし例あり。実に有難やたのもしや。是につきてもいやましに。法の力を頼むなり。〳〵。 シテ一声「我嚝劫のむかしより。末法の今に至るまで。五衰かうかいの海にしづみ。海人の刈る藻にすむ虫の。我からぬらす袂かな。 ワキ詞「不思議やな是に出でたる者を見れば。姿は正しく人間なるが。五衰三熱の苦しみを。悲しむ声の聞ゆるぞや。いかなる者ぞ名を名のれ。 シテ詞「是は此浦にすむ龍神なるが。鐘を施入の其為めに。是まであらはれ出でたるなり。 ワキ「ふしぎやさては秀郷の。 シテ「偽らざりし。 ワキ「かねことの。 地「末とほりなば今の世の。〳〵。不思議なるべし。疑はで待たせ給へや。 クリ地「夫れ撞鐘といつぱ。十二因縁を表し。十二律の響あり。夜昼の刻限を告ぐる事。生死迷悟を示すとかや。 サシ「然るに此鐘は。祇園精舎の北面に掛けし鐘なり。 地「玄奘三蔵渡天の時。龍神法楽の其ために。流砂河に沈め給ひしを。守護して今に至るなり。去る程に此海の。龍神に敵をなす。鉄の蜈蚣ありしなり。ある時秀郷。勢田の橋を通りしに。大蛇となりて行きむかひ。頼む心の末とげて。神通の弓矢にて。忽に敵を亡ぼし。秀郷が其名は。末代に隠れよもあらじ。 シテ「其時龍神秀郷に。 地「数の宝を贈りしに。中にも妙なるは。此鐘の法の力による故。此寺に施入すべきなり。疑はせ給ふなと。夕べの風に声たてゝ。物さわがしき海づらに。行くかと見しが沖津浪に。立ち隠れ失せにけり。浪間にかくれ失せにけり。(中入) ワキ詞「不思議やさては秀郷の。いつはらざりしかねことの。頼もしかりし言葉の末。其契約をたがへじと。法味をなして待ち居たり。待つ程はくるしき物かほとゝぎす。 地「一声いそげ暁の空の。風遠近の雲むらだちて。湖の浪も動揺せり。 地「志賀辛崎の海づらに。〳〵。立ちくる白波の。上にうかべる鐘を守護し。 後ジテ「遮竭羅龍王顕はれ出づれば。 地「無数の小龍無辺の悪龍。みなこと〴〵くうかび出でゝ。此鐘の綱手に取りつきすがりつき。引くとぞ見えしが。程なく寄りくるさゝ波や。三井寺の鐘楼に引き上げたり。まのあたりなる奇特かな。 シテ「遮竭羅龍王その時に。〳〵。かの撞鐘の声を出だして。衆生の冥闇を晴らさんとて。東方に廻りて鐘をつけば。 シテ「諸行無常の響を出だし。 地「さて又南方は。 シテ「是生滅法。 地「西方に向へば。 シテ「生滅々已。 地「北方に廻れば。 シテ「寂滅為楽と。 地「つけば其声心耳をすまし。聞く人則ち菩提に至り。仏法興隆。伽藍繁昌に守るべしと。諸龍一度に頭を傾け礼をなせば。夜もしら〳〵と明け行く空に。龍神は眷属を引きつれ〳〵。立ち帰る波の逆まく水に。浮き沈み。さかまく水に浮き沈んで。又龍宮にぞ入りにける。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著