兼平
世阿弥作 前 ワキ 木曽の僧 シテ 船頭の翁 後 ワキ 前に同じ シテ 今井兼平 地は 近江 季は 四月 ワキ次第「始めて旅を信濃路や。〳〵。木曽の行方を尋ねん。 詞「是は木曽の山家より出でたる僧にて候。さても木曽殿は。江州粟津が原にて果て給ひたる由承り及び候ふ程に。彼御跡を弔ひ申さばやと思ひ。唯今粟津が原へと急ぎ候。 道行「信濃路や。木曽の桟名にしおふ。〳〵。其跡とふや道のべの。草の陰野の仮枕。夜を重ねつゝ日を添へて。行けば程なく近江路や。矢橋の浦に着きにけり。〳〵。 シテ一声「世の業の。憂きを身に積む柴舟や。焚かぬ先より漕がるらん。 ワキ詞「なふ〳〵其船に便船申さうなふ。 シテ詞「是は山田矢橋の渡舟にてもなし。御覧候へ柴積みたる舟にて候ふ程に。便船は叶ひ候ふまじ。 ワキ「此方も柴舟と見申して候へども。折節渡りに舟もなし。出家の事にて候へば別の御利益に。舟を渡してたび給へ。 シテ「実にも〳〵出家の御身なれば。余の人にはかはり給ふべし。実に御経にも如渡得船。 ワキ「船待ち得たる旅行の暮。 シテ「かゝるをりにも近江の海の。 二人「矢橋を渡る船ならば。それは旅人の渡舟なり。 地「是は又。浮世を渡る柴舟の。〳〵。ほされぬ袖も水馴棹の。見馴れぬ人なれど。法の人にてましませば。船をばいかで惜しむべき。とく〳〵召され候へ。〳〵。 ワキ詞「如何に船頭殿に申すべき事の候。見え渡りたる浦山は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。 ワキ「まづ向ひに当つて大山の見えて候ふは比叡山候ふか。 シテ「さん候あれこそ比叡山にて候へ。麓に山王二十一社。茂りたる峰は八王子。戸津坂本の人家まで残りなく見えて候。 ワキ「さてあの比叡山は。王城より艮に当つて候ふよなふ。 シテ「中々の事それ我山は。王城の鬼門を守り。悪魔を払ふのみならず。一仏乗の嶺と申すは。伝へ聞く鷲の御山を象れり。又天台山と号するは。震旦の四明の洞をうつせり。伝教大師桓武天皇と御心を一つにして。延暦年中の御草創。我立つ杣と詠じ給ひし。根本中堂の山上まで。残りなく見えて候。 ワキ「さて〳〵大宮の御在所波止土濃とやらんも。あの坂本の内にて候ふか。 シテ「さん候麓に当つて。少し木深き陰の見えて候ふこそ。大宮の御在所波止土濃にて御入り候へ。 ワキ「有難や一切衆生悉有仏性如来と聞く時は。我等が身までも頼もしうこそ候へ。 シテ「仰せの如く仏衆生通ずる身なれば。御僧も我も隔てはあらじ。一仏乗の。 ワキ「峰には遮那の梢をならべ。 シテ「麓に止観の海をたゝへ。 ワキ「又戒定恵の三学を見せ。 シテ「三塔と名づけ。 ワキ「人は又。 地「一念三千の機を顕はして。三千人の衆徒を置き。円融の法も曇りなき。月の横川も見えたりや。さて又麓はさゝ波や。志賀辛崎の一つ松。七社の神輿の。御幸の梢なるべし。さゞ波の水馴棹。漕がれ行く程に。遠かりし向ひの浦波の。粟津の森は近くなりて。跡は遠きさゝ波の。昔ながらの山桜は青葉にて。面影も夏山の。うつり行くや青海の。柴舟のしば〳〵も。暇ぞ惜しきさゞ波の。寄せよ〳〵磯ぎはの。粟津に早く着きにけり。〳〵。(中入) ワキ歌「露を片敷く草莚。〳〵。日も暮れ夜にもなりしかば。粟津の原のあはれ世の。なきかげいざや弔はん。〳〵。 後ジテ「白刃骨を砕く苦しみ眼晴を破り。紅波楯を流す粧ひ。胡籙に残花を乱す。 一声「雲水の。粟津の原の朝風に。 地「閧つくり添ふ声々に。 シテ「修羅の巷は騒がしや。 ワキ「不思議やな粟津の原の草枕に。甲冑を帯し見え給ふは。如何なる人にてましますぞ。 シテ「愚と尋ね給ふものかな。御身是まで来り給ふも。我なき跡をとはん為めの。御志にてましまさずや。兼平是まで参りたり。 ワキ「今井の四郎兼平は。今は此世に亡き人なり。さては夢にて有るやらん。 シテ詞「いや今見る夢のみか。現にも早水馴棹の。舟にて見々えし物語り。早くも忘れ給へりや。 ワキ「そもや舟にて見々えしとは。矢橋の浦の渡守の。 シテ「其舟人こそ兼平が。現に見々えし姿なれ。 ワキ「さればこそ始めより。やうある人と見えつるが。さては昨日の舟人は。 シテ「舟人にもあらず。 ワキ「漁夫にも。 シテ「あらぬ。 地「武士の。矢橋の浦の渡守。矢橋の浦の渡守と。見えしは我ぞかし。同じくは此舟を。御法の舟に引きかへて。我を又彼岸に。渡してたばせ給へや。 地クリ「実にや有為生死の巷。来つて去る事早し。老少以て前後不同。夢幻泡影いづれならん。 シテサシ「唯是槿花一日の栄。 地「弓馬の家に澄む月の。僅に残る兵の。七騎となりて木曽殿は。此近江路に下り給ふ。 シテ「兼平瀬田より参りあひて。 地「又三百余騎になりぬ。 シテ「其後合戦度々にて。又主従二騎に討ちなさる。 地「今は力なし。あの松原に落ち行きて。御腹召され候へと。兼平すゝめ申せば。心細くも主従二騎。粟津の松原さして落ち給ふ。 クセ「兼平申すやう。後より御敵。大勢にて追つかけたり。防矢仕らんとて。駒の手綱を返せば。木曽殿御諚ありけるは。多くの敵を遁れしも。汝一所にならばやの。所存ありつる故ぞとて。同じくかへし給へば。兼平又申すやう。こは口惜しき御諚かな。さすがに木曽殿の。人手にかゝり給はん事。末代の御恥辱。唯御自害有るべし。今井もやがて参らんとの。兼平に諫められ。又引つ返し落ち給ふ。さて其後に木曽殿は。心細くも唯一騎。粟津の原のあなたなる。松原さして落ち給ふ。 シテ「頃は正月の末つ方。 地「春めきながらさえかへり。比叡の山風の。雲行く空も呉織。あやしや通路の。すゑ白雪の薄氷。深田に馬をかけ落し。引けども上らず。打てども行かぬ望月の。駒の頭も見えばこそ。こは何とならん身の果。せん方もなくあきれはて。此まゝ自害せばやとて。刀に手を掛け給ひしが。さるにても兼平が。行方如何にと遠方の。跡を見返り給へば。 シテ「何処より来りけん。 地「今ぞ命は槻弓の。矢一つ来つて内兜にからりと入る。痛手にてましませば。たまりもあへず馬上より。遠近の土となる。処はこゝぞ我よりも。主君の御跡を。まづ弔ひてたび給へ。 ロンギ地「実に痛はしき物語り。兼平の御最期は。何とかならせ給ひける。 シテ「兼平はかくぞとも。知らで戦ふ其隙にも。御最期の御供を。心にかくるばかりなり。 地「さて其後に思はずも。敵の方に声立てゝ。 シテ「木曽殿討たれ給ひぬと。 地「呼ばゝる声を聞きしより。 シテ「今は何をか期すべきと。 地「思ひ定めて兼平は。 シテ「是ぞ最期の高言と。 地「鐙ふんばり。 シテ「大音上げ。木曽殿の御内に今井の四郎。 地「兼平と名乗りかけて。大勢に割つて入れば。本より一騎当千の。秘術を顕はし大勢を。粟津の汀に追つゝめて。磯打つ波のまくり切り。蜘蛛手十文字に。打ち破りかけ通つて。其後自害の手本よとて。太刀をくはへつゝ。逆さまに落ちて。つなぬかれ失せにけり。兼平が最期の仕儀。目を驚かす有様なり。目を驚かす有様。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著