神渡 別名 諏訪
シテ 諏訪明神(前はその化身) 前ツレ 神の化身 ワキ 勅使 所 信濃諏訪 時 冬 次第「恵みも深き湖の。〳〵。浪に音なき時代かな。 ワキ詞「抑是は当今に仕へ奉る臣下なり。扨も信濃の国諏訪の湖水の氷の橋。君聞召及ばせ給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨を承り。唯今信州に下向仕候。 道行「十日の雨塊を動かさず。〳〵。枝をならさぬ風の音。実治れる御代なれや。民の竈も賑ひて。駅路心に任せつゝ。信濃の国に着にけり。〳〵。 詞「急候程に。是ははや諏訪の湖辺に着て候。暫く此辺りに流憩し。事の由をも尋ふずるにて候。 一声、二人「蘆原の。内に普き神慮。淳なりける。例かな。 二句ツレ「君々たればたれとても。 二人「誓ひになどか。逢ざらん。 サシ「往昔を思ひ出雲の昔より。此湖に地をしめて。 二人「外には正直の頭を照し。内には慈悲の心に宿る。されば賤き此身まで。あさな夕なの煙も豊に。齢ひも久敷栄行事も。ひとへに当社の。御故なり。 歌「袖を連ねて諸共に。いざ宮めぐり初めん。 歌「有り難や誓ひぞしるき瑞籬の。〳〵。久敷代々を守らんと。此湖の底清く。神の心にかけまくも。忝なしや兎に角に。願ひも叶ふ。嬉しさよ。〳〵。 ワキ詞「いかに是成人に尋申べき事の候。 シテ詞「御姿を見奉れば。此あたりにては見馴申さぬ御事也。焉くよりの御参詣にて候ぞ。 ワキ「是は帝の勅使として。この湖水の氷の橋。急ぎ見て参れとの宣旨にまかせ。勅使に参詣申て候。 シテ「是は殊更有難や。御覧候へ此湖の。一夜の内に氷閉。三ン日と申に神渡りし。貢税運送の道広く。 カヽル「様稀なる御事なり。 ワキカヽル「実奇特成事どもや。湖上をみれば皎潔として。万鏡を移す氷の面を。ゆきかふ人の数々までも。歩みより渡る其有様。聞しに越て妙なるぞや。 ツレ詞「又此所に温泉有。厳寒の苦しみ堪難ければ。此温泉に身を投じ。 カヽル「玄冬の日を凌ぐなり。 ワキ「実々見れば此山の。麓に当る温泉は。是も神慮の誓ひかや。 シテ詞「中々の事。御代万歳の御恵み。 カヽル「厚きしるしの氷といひ。 ツレ「又此出湯も其ごとく。国土豊に民栄へ。神徳ふかき温湯なり。 二人「夫は水上是は山岫。海陸共に隔なき。威光は四方に。暉くなり。 ワキ、カヽル「扨々和光の影厚き。謂は取分いかなる事ぞ。 ツレ詞「迚も神祇の物語。彼稀人の御為に。 カヽル「委く語りおはしませ。 シテ詞「あゝ愚なり去りながら。君の為にと聞からに。拙き老が此身までも。 ツレ「いはれを今ぞ。 シテ「ゆふしでの。 歌、同「神掛てかはらぬ御代は久方の。〳〵。天地開け初しより。今人の世に至るまで。猶明らけき神慮。都鄙安全の御恵み。勝有難き誓哉。〳〵。 クリ、地「抑当社の御謂。其説区々なりといへども。取分弓矢の。守護神たり。 サシ「されば出雲の其昔。父兄の言に随ひ給はず。 同「御慮武きがゆへに。今此国に地をしめて。国家を守り給ひしに。 シテ「代々の帝も其徳を。 同「感じ給ひて折々の。任官叙爵蘋蘩の礼義あはします。 クセ「然れば神徳の。誉れは四方に影高く。磐余天皇の御時。異賊退治の御為に。住吉と同敷皇后補佐の臣となり。三韓を安く亡して。国土を静め給ひけり。夫よりも国々に。此御神をうやまひて。崇めずといふ事なし。其後に御姿の。明らけき影を移し。不浄を払ひ邪気をのけ。真実慈悲の政事。一年の内に事繁し。今神前の御鏡は。其御慮の謂なり。 シテ「然れば湖水の氷面鏡。 同「品こそ替れ色々の。神変奇特を顕して。衆生を扶け給ひけり。仰ぐべし〳〵や。神徳の誠を。疑ひ給ふ事なかれ。さもあらばいとゞ納受の。心に叶はざるべきや。などかは信ぜざるべき。 ロンギ、地「不思議なりとよ加程まで。神秘を宣るいぶかしや。其名を名乗給へや。 ツレ「今は何をか包むべき。誠は我は此神に。仕へ久敷神殿。 地「今一人の老人は。 シテ「祭の司預りし。御祓の祝部。 地「神の頼員今爰に。神勅を受て来りつゝ。稀人に又あひ竹の。代々の例をひくのみか。舞楽を奏し慰めん。暫く待せ給へと。いふかと見れば薄氷。ふみ渡りつゝ失給ふ。〳〵。(中入)シカ〴〵 ワキ、歌「教の告に任せんと。〳〵。心にふかく念願し。明がたちかき東雲に。神勅をこそ待居たれ。〳〵。 後シテ、一声「神徳は民の崇に仍て威をまし。蒼生は神の恵に依て運を添ふ。我此宮居に跡を垂。君臣の道を守らんと。誓ひの末も明らかなる。氷橋を渡りて来りたり。 地「諏訪の海。氷の橋は。千早振。神の渡りて。解るなる。 シテ「水の隙より頼員の。 地「数々の。誓ひはおなじ是とても。君の恵み厚氷の。 シテ「ためしを見する。あらたさよ。 地「うたへやうたへうたかたの。水も氷も衣手に。(舞) シテ「宮人の。返すや袖の氷面鏡。 地「影明らかに。 シテ「神の御渡り。 地「神の御渡り悉く終。各々奇異の思ひを起し。感涙肝に銘じつゝ。渇仰の気色。様々なれば。其時妙なる御声にて。長生殿に春秋富り。幾年雪は不老門。善哉々々と感じ給へば。虚空に雪の花をふらし。花ふり下つて。神はあがらせ給ひけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『古今謡曲解題』丸岡桂 著、『宴曲十七帖 謡曲末百番』国書刊行会 編