加茂
禅竹作 前 ワキ 室明神の神職 シテ 里女 ツレ 侍女 後 ワキ 前に同じ ツレ（天女） 神女 シテ 別雷神 地は 山城 季は 六月 ワキ次第「清き水上尋ねてや。〳〵。加茂の宮居に参らん。 詞「抑是は播州室の明神に仕へ申す神職の者なり。さても都の加茂と当社室の明神とは御一体にて御座候へども。いまだ参詣申さず候ふ程に。此度思ひ立ち都の加茂へと急ぎ候。 道行「播磨潟。室の扃の曙に。〳〵。立つ旅衣色染むる。飾磨の徒路行く舟も。上る雲井や久堅の。月の都の山陰の。加茂の宮居に着きにけり。〳〵。 シテ、ツレ一声「御手洗や。清き心に澄む水の。加茂の河原に出づるなり。 ツレ「直に頼まば人の世も。 二人「神ぞ糺の道ならん。 シテサシ「半ゆく空水無月の影更けて。秋程もなき御祓川。 二人「風も涼しき夕波に。心も澄める水桶の。もちがほならぬ身にしあれど。命の程は千早振。神に歩を運ぶ身の。宮居曇らぬ心かな。 下歌「頼む誓は此神に。よるべの水を汲まうよ。 上歌「御手洗の。声も涼しき夏陰や。〳〵。糺の杜の梢より。初音ふり行く時鳥。なほ過ぎがてに行きやらで。今一通り村雨の。雲もかげろふ夕づく日。夏なき水の河隈。汲まずとも陰は疎からじ。〳〵。 ワキ詞「如何に是なる水汲む女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「是は此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。何処よりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「実によく御覧じ候ふ物かな。是は播州室の明神の神職の者にて候ふが。始めて当社に参りて候。先々是なる河辺を見れば。新しく壇を築き。白木綿に白羽の矢を立て。剰へ渇仰の気色見えたり。こはそも何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さては室の明神よりの御参詣にて候ふぞや。また是なる御矢は。当社の御神体とも御神物とも。唯此御矢の御事なり。あからさまなる御事なりとも。渇仰申させ給ひ候へ。 ワキ「実に有難き御事かな。さて〳〵当社の神秘に於て。さま〴〵有るべき其内に。 詞「分きて此矢の御謂。委しく語り給ふべし。 シテ詞「総じて神の御事を。あざ〳〵しくは申さねども。あら〳〵一義を顕はすべし。むかし此加茂の里に。秦の氏女と云ひし人。朝な夕な此河辺に出でゝ水を汲み神に手向けゝるに。ある時河上より白羽の矢ひとつ流れ来り。此水桶にとまりしを。取りて帰り菴の軒に挿す。主思はず懐胎し男子を生めり。此子三歳と申しゝ時。人々円居して父はと問へば。此矢をさして向ひしに。此矢すなはち鳴雷となり。天に上り神となる。別雷の神是なり。 ツレ「其母御子も神となりて。加茂三所の神所とかや。 シテ「左様に申せば憚りの。誠の神秘は愚なる。 シテツレ「身に弁へは如何にとも。いさ白真弓弥猛の人の。治めん御代を告げ白羽の。八百万代の末までも。弓筆に残す心なり。 ワキ「よく〳〵聞けば有難や。さて〳〵其矢は上る代の。今末の世にあたらぬ矢までも。御神体なる謂は如何に。 シテ「実によく不審し給へども。隔てはあらじ何事も。 ワキ「心からにて澄むも濁るも。 シテ「同じ流れのさま〴〵に。 ワキ「鴨の河瀬も変はる名の。 シテ「下は白川。 ワキ「上は鴨川。 シテ「又其内にも。 ワキ「変はる名の。 地「石川や。瀬見の小河の清ければ。〳〵。月も流れを尋ねてぞ。澄むも濁るも同じ江の。浅からぬ心もて。何疑ひの有るべき。年の矢の。早くも過ぐる光陰。惜しみても帰らぬはもとの水。流れはよも尽きじ。絶えせぬぞ手向なりける。いざ〳〵水を汲まうよ。〳〵。 ロンギ地「汲むや心もいさぎよき。鴨の河瀬の水上は。如何なる所なるらん。 シテ「何処とか。岩根松が根凌ぎ来る。滝つ流れは白玉の。音ある水や貴船川。 地「水も無く見えし大井川。それは紅葉の雨と降る。 シテ「嵐の底の戸無瀬なる。波も名にや流るらん。 地「清滝川の水汲まば。高嶺の深雪解けぬべき。 シテ「朝日待ち居て汲まうよ。 地「汲まぬ音羽の滝波は。 シテ「受けて頭の雪とのみ。 地「戴く桶も。 シテ「身の上と。 地「誰も知れ老いらくの。暮るゝも同じ程なさ。今日の日も夢の現ぞと。うつろふ影は有りながら。濁りなくぞ水むすぶの。神の心汲まうよ。神の御心汲まうよ。 ワキ詞「実に有難き御事かな。かやうに委しく語り給ふ。御身は如何なる人やらん。 シテ詞「誰とは今は愚なり。汝知らずや神慮に趣き。迎へ給はゞ君を守りの。此神徳を告げ知らしめんと。顕はれ出でゝ。 地「恥かしや我姿。恥かしや我姿の。真をあらはさばあさましやな。あさまにやなりなん。よし名ばかりは白真弓の。やごとなき神ぞかしと。木綿四手に立ちまぎれて。神がくれになりにけりや。神がくれになりにけり。（中入） 天女「あら有難の折からやな。我此宮居に地をしめて。法界無縁の衆生をだに。一子とおぼし見そなはす。御祖の神徳仰ぐべしやな。曇らぬ御代を守るなり。 地「守るべし守るべしやな。君の恵も今此時。 天女「時至るなり時至る。 地「感応あらば影向微妙の。相好荘厳まのあたりに。有難や。（天女舞） 地「賀茂の山並御手洗の影。〳〵。移りうつろふ緑の袖を。水に浸して涼みとる。〳〵。裳裾をうるほす折からに。山河草木動揺して。まのあたりなる別雷の。神体来現し給へり。 後ジテ「我は是れ。王城を守る君臣の道。別雷の神なり。 地「或は諸天善神となつて。虚空に飛行し。 シテ「又は国土を垂跡の方便。 地「和光同塵結縁の姿。あら有難の御事やな。 シテ「風雨随時の御空の雲井。 地「風雨随時の御空の雲井。 シテ「別雷の雲霧を穿ち。 地「光り稲妻の稲葉の露にも。 シテ「宿る程だに鳴雷の。 地「雨を起して降りくる足音は。 シテ「ほろ〳〵。 地「ほろ〳〵。とゞろ〳〵と踏みとゞろかす。鳴神の鼓の時も至れば。五穀成就も国土を守護し。治まる時には此神徳と。威光を顕はしおはしまして。御祖の神は糺の森に。飛び去り〳〵入らせ給へば。猶立ち添ふや雲霧を。別雷の。神も天路に攀ぢ上り。神も天路に攀ぢ上つて。虚空に上らせ給ひけり。 底本：国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第三輯』大和田建樹 著
