蛙
前 ワキ 都の人 シテ 里女 後 ワキ 前に同じ シテ 蛙の精 地は 摂津 季は 雑 ワキ次第「和歌の心を道として。〳〵。住吉の神に参らん。 詞「是は都方に住居仕る者にて候。さても我和歌の道にたづさはるといへども。余りに愚に候ふ間。かやうの事を祈り申さんために。住吉の明神へ参詣仕り候。 道行「道知らば。尋ねも行かん住吉の。〳〵。岸に生ふてふ草の名の。年を積りの恨みなる。心を友と敷島や。守の宮に着きにけり。〳〵。 サシ「げにや和光の風俗なる。和歌を守りの神慮。あら愚なりとも道にかなふ。納受を垂れおはしませ。げにや花に鳴く鶯。水に住む蛙までも。歌を詠まぬはあらざるべし。あら面白や候。 シテ詞「なふ〳〵旅人は何を仰せ候ぞ。 ワキ「さん候此浦はじめて一見の者にて候ふが。花に鳴く鶯水に住む蛙までも。歌を詠むといふ事を口ずさみ候ふよ。 シテ「さればこそ鶯の歌はよその例し。蛙の歌は此浦に。由緒ある事にて候ふ物を。 ワキ「あら面白や蛙の歌は。由緒は如何に語り給へ。 シテ「昔し此浦に詣で候ふ都の人。江による蛙のみなはとをく。 ワキ「あはれ昔のためしを残して。 シテ「今も囀る蛙の歌は。 地「住吉の。海士の見るめも忘れねば。〳〵。仮にぞ人に又訪はれぬると。詠みし歌もこの浦の。所から住吉の。海士の囀にあらずや。面白や雁なきて。菊の花さく秋あれど。春の海辺に住吉の。浦の名までもなつかしや。〳〵。 クリ地「それ敷島の道のしるべ。此御神の守りとして。国土ゆたかに民安し。 サシ「昔し壱岐の守何がしと申しゝ雲の上人。あからさまなる此宮地に。行きとゞまりし海士乙女の。仮の苫屋の浜庇。久にもあらぬ一夜の契。思ひの妻となりたるなり。 クセ「其まゝきぬ〴〵の。袖の名残も引き留むる。心ならずも帰るさに。年月つもる心地して。又この浦に立ち帰る。問へば行方も白波の。あはれはかなき契ゆゑ。面影のこる海ぎはに。さそらへ出でし夕まぐれ。浜の真砂の踏み渡る。蛙の道の跡みれば。有りし言の葉あらはるゝ。心を知れば疑ひも。 シテ「涙ながらもつく〴〵と。 地「思へばよしな人界も。水の底なるうろくづや。藻に住む蛙うたかたの。あはれ江による心なれば。六趣四生にめぐりめぐる。車の輪の如く。鳥の翅や花に鳴く。鶯も同じ御法なる。言の葉を囀る。蛙こそためしなりけれ。 ロンギ地「げにや蛙の物語。委しく語りおはします。御身いかなる人やらん。 シテ「此身はさすが住吉と。海士はいふとも長居せし。姿やさても顕はれん。 地「あらはれ給ふ御姿。何の故にか憚りの。 シテ「誠を見れば。 地「浅沼の。蛙とな思し召しそ。此神の御誓ひ。なにはの事も和歌の道を。守ります心よとて。松陰に隠れけり。此松陰に隠れけり。(中入) ワキ歌「住の江や。此松陰に旅居して。〳〵。下枝を洗ふ白波に。袖うちしをる塩風に。心を澄ます夕べかな。〳〵。 地「住の江や。〳〵。水の蛙の囀り出でゝ。すだくも和歌の声なれや。 シテ「おんころ〳〵せんだりまとうぎ。 地「そはかの心は。天竺の霊文唐土の詩賦。我朝の風俗。げにまこと有り。花になく鶯。梢に飛びあがり。水に住む蛙のあひやどり。雨やどり。村雨の音も諸声に。鳴くかと思へば旅枕。鳴くかと思へば旅寝の枕の。夢はさむるぞあはれなる。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第二輯』大和田建樹 著