木曽願書
シテ 木曽義仲 立衆 従兵 トモ 立衆中の一人 ヲカシ 里人 ツレ 覚明 ワキ 今井兼平 地は 越中 季は 夏 一声立衆「八百万代を治むなる。弓矢の道こそ久しけれ。 シテ「抑是は。木曽義仲とは我事なり。 立衆「さても平家は越前の。燧が城を攻め落し。都合其勢十万余騎。此砥並山まで攻め下る。 シテ「こゝには源氏。 立衆「かしこに平家。両陣相さゝへ。龍虎の威をふるひ。獅子象の勢。帝釈修羅の思ひをなし。 上歌「日月も手の内に。〳〵。とり〴〵なれや梓弓の。矢叫びは雲にひゞき。閧の声は倶梨伽羅の。谷風も烈しく。山河草木も震動す。されども味方の計略。明日の合戦と触れければ。敵味方に矢をとゞめ。くつばみを返し砥並山。明くる空をぞ待ちゐたる。〳〵。 シテ詞「如何に誰かある。 トモ「御前に候。 シテ「あの茂みの中に。新しき社壇の見えたるは。如何なる神を勧請申したるぞ尋ね来り候へ。 トモ「畏つて候。如何に在所の人の渡り候ふか。 ヲカシ「何事にて御座候ふぞ。 トモ「あれに新しき社壇の見えて候ふは。如何なる神を勧請申してあるぞ。 ヲカシ「さん候始めて八幡を勧請申して候。今八幡とも又在所を羽生と申すにより。羽生の八幡とも申し候。 トモ「如何に申し上げ候。在所の者に尋ね申して候へば。新しく八幡を勧請申して候ふが。今八幡とも申し。又羽生の八幡とも申すよしを申し候。 シテ「近頃めでたき事にて候。やがて社参申さうずるにて候。覚明を召して願書をこめ候へ。 トモ「畏つて候。如何に覚明御参り候へ。急ぎ願書を書きて御こめあれとの御諚にて候。 覚明「畏つて候。やがて仕らうずるにて候。 サシ立衆「今井樋口を始めとして。其数多き兵ども。皆悦びの色をなして。 地「急ぎ社壇に参りつゝ。〳〵。信心を致し取り分きて。願書を読み上げ。猶神徳を仰がん。 シテ「何々帰命頂礼。八幡大菩薩は。日域朝廷の本主。累世明君の曩祖たり。 地「宝祚を守らんが為め。蒼生を利せんが為めに。三身の金容を顕はして。三所の権扉を押し開き給へり。こゝに頻の年よりこのかた。平相国といふ者あつて。四海を掌にし。万民を悩乱せしむ。是れ仏法の怨み王法の敵なり。抑曽祖父前の陸奥守。名を宗廟の氏族に帰附す。義仲いやしくも。其後胤として此大功を起すこと。喩へば嬰児の蠡を以て巨海を測り。蟷螂が斧を取つて。隆車に向ふ如くなり。然れども君の為め国の為めに。是を起すのみなり。伏して願はくは。神明納受垂れ給ひ。勝軍を究めつゝ。仇を四方に退け給へ。寿永二年五月日と。高らかに読み上ぐれば。 シテ「義仲願書に鏑矢を。神前に捧げ申せば。御供の兵どもゝ。上差の鏑を一つづゝ。彼宝前に捧げて。南無帰命頂礼。八幡大菩薩とて。皆礼拝を参らする。 一声ワキ「寄せかくる。汀の波のおのづから。音も烈しき朝嵐。 詞「如何に平家の軍兵たしかに聞け。抑是は木曽殿の御内に。今井の四郎兼平。今日追手の大将と名乗り呼ばゝる其声は。天地も響くばかりなり。 地「今井が合図の鬨の声に。後の林の五万余騎。一度に鬨をどつと作る。 地「平家は其勢十万余騎。〳〵。時もこそあれ五月闇。暗さは暗し巌石巌の。敵も味方も同士討すなと。魚鱗鶴翼定めもなし。 シテ「かゝりける処に。 地「かゝりける処に。羽生の八幡の社壇の上より。神火一村飛び上つて。源氏の軍兵の闇を照らす。光の影をよく〳〵見れば。鳩鳥を戴く忍辱の御鎧。悪魔降伏の白羽の鏑矢を。平家の陣に射給ふと見えしが。平家の大勢取る物も取りあへず。倶梨伽羅が谷の。巌石の上に走りかゝり。落ち重なり〳〵。馬には人々には馬。雪のしづえや霜くづれ。積る木の葉の塵ひぢの如く。七万余騎は倶梨伽羅の。谷の千尋の深きをも。浅くなる程埋めたりけり。 底本:国立国会図書館デジタルコレクション『謡曲評釈 第七輯』大和田建樹 著