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木曽

シテ 太夫坊覚明
ツレ 木曽義仲
ツレ 池田次郎
ツレ 従兵立衆

五月

シテツレ一声「八百万。神も引きます麑の名の。弓矢の道こそ。久しけれ。
ツレ木曽「抑これは木曽義仲とは我事なり。
ツレ同「扨も平家は越前の。燧が城を攻め落し。都合其勢十万余騎。此礪波山まで押寄する。
木曽「身方は僅五万余騎。計略を以て防がんとて。
ツレ同「白旗数多とゝのへつゝ。黒坂の上に押立てゝ。敵の心を疑はしめ。山中にたむろさせ。夜に入大手搦手より。一度にかゝり倶利伽羅が。谷へ敵を落さんと。
上歌ツレ同「用意をなして義仲は。〳〵。勢を七手に別ちつゝ。その身は殊に精兵。一万余騎を引き従へ。埴生に陣をぞ。とりにける〳〵。
池田詞「いかに申上候。御諚の如く黒坂の上に。多くの白旗を立てゝ候へば。平家の勢是を見て。あはや源氏大勢向うたるは。取こめられては適ふまじ。茲は便宜の所也と。礪波山の山中。猿が馬場と申す所に陣をとつて候。
木曽「夫こそ義仲が願ふ処なれ。さあらば矢合は明日たるべし。構へて身方を戒め戦はずして。夜に入つて押寄せうずるにて候。面々に其由申候へ。
池田「畏つて候。
木曽「いかに池田の次郎。
池田「御前に候。
木曽「是より北に当つて夏山のしげみの中に。朱の玉垣ほの見えて。かたそぎ造の社あり。あれをば何処と申すぞ。いかなる神を崇め奉りたるぞ。
池田「さん候あれこそ埴生の八幡宮にて渡らせ給ひ候。此所も其御領の地にて候。
木曽「義仲何とのう陣とりしに。八幡の御地なるこそ吉兆なれ。いかに覚明。
シテ「御前に候。
木曽「且は後代の為。一つは当時の祈禱の為。願書を参らせうと思ふはいかに。
シテ「御諚の如く。御願書を御奉納あつて然るべう候。
木曽「さあらば願書を書き候へ。
シテ「畏つて候。覚明仰をうけたまはり。
同「箙の中よりも。〳〵。小硯料紙取出し。墨すり筆を和しけるが。思ひ案ずる気色もなく。古書を写すが如くにてやがて願書を書き終る。
願書「何々帰命頂礼八幡大菩薩は。日域朝廷の本主。累世明君の曩祖たり。宝祚を守らんがため。蒼生を。利せんがために。三身の。金容をあらはして。三所の権扉を。おし開き給へり。爰に頻りのとしより以来。平相国といふ者あつて。四海をたなごゝろにし。万民を。脳乱せしむ是。仏法のあた。王法の敵なりそも〳〵。曽祖父前の陸奥の守。名を宗廟の。氏族に帰附す。義仲いやしくも。其後胤として。この大功をおこす事。たとへば嬰児の蠡を以て。巨海を測り蟷螂が斧をとつて。龍車に向ふ如くなり。然れども君のため国のためにこれを起すのみなり。伏して願はくは。神明納受垂れ給ひ。勝ことを究めつゝ。あたを四方に退け給へ寿永二年五月日と。高らかに読み上げたり。
同「木曽殿を初めとして。其座に在りし兵ども。真に文武の達者かなと。皆覚明をほめにけり。
木曽「義仲表指抜き出し。
同「是を願書に取添へて。内陣に納めよと。覚明に賜れば。覚明是を捧げ持ち御前を立ちてゆゝしくも。八幡の宮に参りけり〳〵。
シテ「いかに申上候。御願書並に御表指の鏑。八幡の宮に奉納仕りて候。又此の庄の土民。軍の御門出を祝し。酒肴を奉りて候。
木曽「斯る目出度き事こそなけれ。此度の軍に勝たんずる事必定也。さらば軍の門出を祝ふべし。覚明酌に立候へ。
シテ「畏つて候。八幡の宮の神風に。
同「敵は木の葉と。散ぬべし。
木曽「いかに覚明一さし舞ひ候へ。
シテ「畏て候。
地「敵は木の葉と。ちりぬべし。(男舞)
同「酒宴も既に央ばなりしに。〳〵。不思議や八幡の方よりも。山鳩翼を並べつゝ。身方の旗手に飛び翔り。納受のしるしを現はしければ。木曽殿を初め。軍兵ども。皆一同に。伏拝み。愈々加護をぞ願ひける。扨こそ平家の大勢を。倶利加羅が谷に。追ひ落し。唯一戦に。勝利を得しも。まことに八幡の。神力なり。

底本:国立国会図書館デジタルコレクション『観世流謡曲錦囊 巻之四』観世流謡曲同志研究会 編

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